「此あるがゆえに彼あり・・・」
   

桐 山 紘 一

1.不立文字教外別伝の真意

「どんな言葉でも事実として根拠があるべきだ」これはミュージシャンであり、俳優でもある武田鉄矢さんの言葉です。多くの人を引きつけて止まない人気の秘密は、このような彼の生き方が事実としてあるからでしょう。
 次は、彼が作詞した「贈る言葉」という大ヒットしたフォークソングの歌詞です。言葉の背景にある偽らざる真実を感じ取ってみてください。

   『贈る言葉』  作詞 武田鉄矢 唄 海援隊
   暮れなずむ町の 光と影の中 去りゆくあなたへ 贈る言葉
   悲しみこらえて ほほえむよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい
   人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから
   さよならだけでは さびしすぎるから 愛するあなたへ 贈ることば

 この歌を音楽として聴くことができれば、さらに直接的に真実を味わうことができるでしょう。
 さて、禅は「不立文字、教外別伝」と言われるように、悟りの当体は言葉で表現したり、伝えたりすることはできないとされています。ところが禅には沢山の語録や経典があるのはどういう訳でしょうか。
 それは、厳しい修行によって経験した悟りの事実を、より多くの人々に伝え、共有したいという切実な願いのもとに、表現されたものと言ってもよいでしょう。それが語録や経論成立の根拠だと思います。
 そして後の人々は、先徳が遺してくれた語録や経論を通して、自らの仏道修行を確かめながら、お釈迦様の悟りの事実を追体験していくのです。仏教の歴史は、このような追体験の歴史と言っても過言ではありません。自らの禅経験を拠り所にして、経論の中に普遍的真実を求めていく、それが不立文字教外別伝の真意ではないかと思います。


2.阿含経典にみられる縁起の理法

  「縁起ということは分かりましたが、それがどうして空なのか分かりません」、これは、私が「縁起と空」についての話をさせていただいた時に、ある方が言われた言葉です。「縁起」とは簡単に言えば、物事は相互に依存し合い、関係し合いながら変化し続けているということですが、それがどうして「空」なのかという素直な疑問です。
 しかし、「縁起」ということが本当に分かっているとしたら、どうして「空」が分からないのか。むしろ「縁起」の理法が分からないから、「空」ということも分からないのではないか。または私が余程言葉足らずの話をしたので、返って混乱させてしまったのではないかとも思われます。そこで、縁起の理法とはどのような事で、どのように成立してきたのか、今度は経論の中に分け入って考えてみたいと思います。
 次は阿含経典に見られる有名な言葉です。実際にお釈迦様がこのような言葉で語ったのか定かではありませんが、後の人々が追体験した結果、お釈迦様の縁起観はこのようなものであると、確信をもって表現したのではないかと思われます。
   此あるがゆえに彼あり
   此生ずるがゆえに彼生じ
   此滅するがゆえに彼滅し
   此無きがゆえに彼無し
 この言葉は「十二支縁起」の前後に付け加えられていることが多いのですが、それは何故でしょうか。この言葉は「縁起」ということを論理的に述べたもので、この原理を元にして具体的な仏道としての「十二支縁起」が語られ、さらに仏教の大綱である「四聖諦」が語られたというのが順当のように思います。したがって仏教を学ぶには、「此あれば彼あり〜」の言葉を吟味して、次に十二支縁起を学び、最後に「四聖諦」という仏教総論を学ぶのが分かりやすくて良いのではないかと思います。
 「此あるがゆえに彼あり」と「此れ無きがゆえに彼無し」は、空間的縁起観と言えます。例えば大地と生き物、親と子、苦と楽の関係のように、相互依存の関係によって互いに限定し合いながら存在しているということです。親のいない子供はいないし、子供のいない親はいないのです。また「此生ずるがゆえに〜」は、どちらかが生滅すれば、もう一方も生滅する。時間的に見ると、過去の原因によって現在の結果が生まれ、逆に現在の結果は必ず過去にその原因があるということです。さらに現在の結果を原因として未来の結果が生まれる。これが時間的縁起観といわれているものです。
 このようにして全ての物は勿論、現象なども含めて、空間的に時間的に相互に依存し、密接に関係し合いながら生滅しているのです。言葉で縁起を説明すれば、何だ、それだけのことかということにも成りかねませんが、これこそ釈尊が発見されたありのままの世界であり、偉大なる事実の世界です。

3.お釈迦様の縁起観

 経典では、お釈迦様が七日間の坐禅をされて、八日目の朝、明けの明星をご覧になった刹那、お悟りを開かれたとされております。その時お釈迦様は、ありのままの事実の世界を目の当たりにして大変驚かれ、「奇なるかな 奇なるかな、生きとし生ける一切の衆生は、悉く如来の智慧徳相を具有す」と、宣言されたというのです。
 意訳すると、「何と素晴らしいことか、何と素晴らしいことか、私も含めて生きとし生けるものは、そのように成るべくして成り、完全無欠に申し分なく生きている・・・」と。「如来の智慧徳相」ということを、「完全無欠に申し分なく生きている」と、言い換えましたが如何なものでしょう。さらに、人間の分別意識を超えて、完全無欠に申し分なく働いているのが縁起の理法であり、それが如来の智慧徳相であると言ってもよいでしょう。
 お釈迦様はこのような縁起の理法を発見して、当時のウパニシャド哲学が主張している「輪廻転生する我や霊魂と言った主体(アートマン)」は存在しないということを確信して「無我」を主張されました。
 経典では三宝印の一つとして「諸法無我」が位置づけられておりますが、これが仏教誕生のキーワードとなり、法(縁起観)を拠り所にした革新的な思想が誕生したのです。
 カースト制度による社会では、生まれながらにして身分が決まっており、前世の報いによって現世の身分があるという支配階級に都合の良い輪廻思想が支配的でした。これに対して、結果には必ず原因があるという縁起の思想は、人生に於いても、結果を見つめて原因を究明して克服すれば、新しい未来が約束されるという革新的思想ですから、当時の民衆に歓迎されていったのです。
 こうして縁起観は仏教の中心思想となり、仏教が無限に展開されていく原点となったのです。

4.縁起から空へ

 縁起の理法について言葉の理論だけでなく、できるだけ具体的に考えることによって、深く理解できるのではないでしょうか。具体例を上げて考察してみたいと思います。
 机上に一枚の紙が有ったとします。紙の下に机が有って紙を支えているから、紙がここに有ることができるのです。紙を支えている机、机を支えている床、床を支えている土台、土台を支えている大地〜と、無限に広がっていきます。
 また、ここに紙を有らしめるためには、適度な湿度や温度の空気が無いと存在しない。空気は酸素が無いと〜、酸素は植物の同化作用によって作られますから植物が無いと〜、植物は大地が無いと〜。このように紙一枚が全てのことに無限に関わり合いながら存在しているのです。従ってこれらの関係が無くなると、すべては成り立たなくなってしまいます。紙という独立したものは存在せず、紙を有らしめる関係性(縁起)のみが働いているということになります。このような関係性を空間的縁起と呼ぶことは先に述べたことです。
 また、ここに一枚の紙があります。この紙を半分にし、さらに四分の一にして、だんだん細かく千切って行きます。最後には細い繊維のようなものになるでしょう。このような場合、どこまでが紙で、どこから紙で無くなるのでしょうか。
 さらに、紙の原料は木材です。これを細かく砕いてパルプを作ります。色々の薬剤を使って調整しながら紙ができ上がります。やがて紙は酸化して変色したり分解したり、人為的に燃やされたりして変化していきます。いったいどこから木材で、どこまでがパルプで、どこから紙なのでしょうか。ある程度の線引きはできるかもしれませんが、厳密には不可能です。
 紙という名称は、変化し続ける世界のある部分を指して、人間の都合よって仮に命名された言葉であり、変化し続ける事実そのものではないのです。変化し続ける事実の世界は、言葉で表すことも言葉でとらえることもできないのです。
 従って、ただ原因と結果による相互依存関係、つまり「縁起の理法」が無限に働いているのみの空漠たる世界、いや絶妙なる世界です。
 心の縁起についてと、縁起を空性と説いた龍樹については次回へ (続く)




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