桐 山 紘 一

1.はじめに

「曲がり角を曲がった先に、何があるか分からない。それはきっと一番良いものに違いない。」・・・・朝ドラの「花子とアン」を見ていたら、こんなセリフが耳に飛びこんできました。
 曲がり角という場面を設定することにより、これから起こることに、夢と期待を寄せているのが何とも文学的で楽しい。しかも人生における深い洞察がうかがえる素晴らしい言葉です。
 その先に何があるか分からないところ、つまり人間の概念や意識の及ばない、即今只今、自由自在に働いている状況を、仏教では「縁起、空」という絶妙な言葉で表現しています。また、「縁起、空」ということを、より実践的に表現すると「動中の禅」ということになります。
 今までに、「動中の禅」というタイトルで、「禅味」に5回掲載していただきましたが、その根本的内容である「縁起、空」について、仏教の発展的歴史の中に探ってみようというのが本稿の目的です。また、「縁起と空」については、平成16年11月号に掲載させていただき、長野禅会のホームページにも掲載してありますので、ご覧いただければ幸いです。今回はその続きで、釈尊の縁起観についての感想や、私の経験を書いてみたいと思います。
 さて、表題の「縁起と空」は並列しましたが、どちらも同じことの別の表現です。縁起と言っても空と言っても、全く同じことを別の視点から述べたものです。「女性の女」と言ったような表現でおかしいのですが、縁起を発展的に表現したものが空と言えますから、縁起を先にして「縁起と空」ということにしました。


2.釈尊の四諦と縁起

 お釈迦様はお悟りを開かれたとき、世界をありのままに見る透徹した目で、衆生の苦しみをご覧になり、救済への道を最初に示されたのが、苦、集、滅、道の四諦の法門です。これは一種の実践的縁起観とみることができると思いますので、私の経験に照らして見ていきたいと思います。仏教の概説書には必ず紹介されている四諦の法門を参考にして、少し付け加えて分かりやすくしてみました。

 (1)人生は苦である(苦諦)。
 (2)人生に苦をもたらす原因は、煩悩・執着心である(集諦)。
 (3)苦の原因である煩悩・執着心を滅し尽くしたところが涅槃である(滅諦)
 (4)八正道の修行により、悟りの智慧を獲得して煩悩を絶ち涅槃に至る(道諦)

 釈尊の四門出城伝説に象徴されるように、人生は苦であるという問題意識から仏教は出発しています。具体的には生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の八苦がありますが、一つひとつ自らの人生に当てはめてみれば、実践上の真実として心身に迫ってくるものがあります。
 苦の原因である煩悩には、三毒をはじめとして様々なものがありますが、中でも渇愛は欲望を満たそうとする執着心ですから、欲望が満たされないときには激しい苦しみ、いわゆる苦悩・苦痛が起こります。
 涅槃に至る方法が道諦で、八正道や三学などのことです。
八正道とは@正見、(正とは、偏らない、執着心がない、中道、物事をありのままに見ること等です)A正思惟、B正語、C正業、E正命、E正精進、F正念、G正定、この八正道を完遂して涅槃に至るのです。
 三学とは、戒、定、慧のことで、これが成道の要訣と言われております。戒で身を正し、修行を行い易くして、禅定を修し、悟りの智慧を獲得して涅槃に至るのです。八正道は三学をさらに具体的にしたものと言ってもよいでしょう。
 四諦めの法門をさらに具体的に分析したものが十二支縁起ですから、四諦と併せて見ていく必要がありますが、生死の問題に関わって後述したいと思います。

3.癌を宣告されて

 26年7月のはじめ、私は前立腺癌と宣告されました。
 思いも寄らないことで、宣告を受けたときは大変ショックでした。 「曲がり角を曲がった先には、何があるか分からない。それはきっと一番良いものに違いない。」などと暢気なことを言っていられない状況でした。人生における最大の試練が身近に迫ってきて、これから何が起こるかわからない。近い内に死ぬかもしれないという、不安と緊張で混沌とした状態が続き、夜も眠れませんでした。まさに人生の苦の真っ只中といったところです。
 このような状況は如何なる原因によって起こるのでしょうか。
 十二支縁起や四諦からすると、その原因は、煩悩・執着心・渇愛等々ということになります。無知、無明も煩悩の部類ですから、これも不安や苦しみの原因ということになります。
 したがって、四諦の法門や縁起の理法を良く理解していれば、このような苦しみは起こらないのではないかと思われます。しかし私の場合は、表面的に理解はしていても、縁起の理法に則った生き方として、また生への執着心を離れた中道の生き方として、自分自身にしっかり実現されていなかったのではないかと思うのです。
 さらに、癌を患って亡くなった多くの人々の苦しみを、目の当たりにしてきているので、癌という病と、苦と老死が一つになって、私の記憶や無意識(潜在意識)に蓄積されていたのではないかと思われます。それが、癌の宣告をされたときに一気に顕在化しきて、いわば一時的なパニック状態に陥っていたのだと思います。このことは業報思想や、唯識縁起と言われる範疇で説明できますが、別の機会に明らかにしてみたいと思います。
 一時的なパニックと言いましたが、癌を宣告されてから2〜3日経過すると、不安と緊張の苦しみから解放された感がありました。
 時が経過して冷静さを取り戻したということもありますが、もう一つは、少しは経験的に身に付いている禅の生き方が蘇ってきた。または無意識(潜在意識)に蓄積された禅経験が、呼び覚まされたのではないかとも思われます。

4.癌の克服に向かって

 癌の宣告から2〜3日経過して、目まぐるしく考えたり行動したりしたことを、幾つか取り上げてみたいと思います。

● このような状況は起こるべくして起きた縁起的な結果であること。それは自分の意思を超えて働いている「八苦」の中にある「病苦」であり、これは人間本具の真理であること。無責任な言い方になりますが、自らの意思だけではどうにもならない、成るようにしか成らないということです。そして、縁起と空の実践とは、いろいろの条件や事物の相互依存関係の中に、心身をスッポリと無条件に置くことです。それが無我とか無心ということになると思います。

● 次に、これから起こるかもしれないことを妄想して、くよくよ悩んでも始まらない。それは分かっているのですが、癌、病、老死、などの危機感は、心身や潜在意識に残存していて、なかなか払拭できないのです。しかし、ありのままの自己である無我・無心は、縁起の理法によって即今只今のところに働いています。したがって、自分にとって現在最も大切なことに集中して、その一事に成り切り、全力を尽くすということで、不安や妄想を払拭し、ありのままの自己を実現することができるのです。

● その第一は、毎年取り組んできた梅干し作りという仕事です。梅の収穫をして漬け込みをするのは今しかありませんし、梅干し作りは天候次第ですから、癌を宣告されたからといって安閑としているわけにもいきません。今やることに素直に集中して、無理なく淡々と作業を続けたのです。それがどれだけ心の安らぎになったことでしょう。

● 第二は、私の癌の性質や状況、治療方法などを徹底的に調べることでした。
 結論として、最新の治療方法はアメリカで開発されたトモセラピーという機器を使った、強度変調放射線治療というものです。それは心身へのダメージを最小限にくい止めることができるもので、その治療ができる所は、全国に17箇所しか無く、私の住んでいる長野県では、松本市S病院でしか行われていないということが分かりました。最終的にはそこで放射線治療を受けることができたのは不幸中の幸いでした。

● 第三は、癌という危機的状況に直面したからでしょうか、今までに学んだ仏教の教えが、次々と思い出されてきたので、自分の置かれている状況と合わせて、再度考えたり読み直したりしました。今までに気づかなかった新しい発見が多々ありました。「縁起と空」という視点からその幾つかを上げてみます。

● 「生を明らめ死を明らめむるは仏家一大事の因縁なり・・・云々。」 これは「修證義」の冒頭の言葉です。私の人生に於いても、生死を明らめる最大のチャンスが訪れているのではないか。このときを逃したら何時、安心を得ることができるというのか。といった決死の覚悟のような思いが湧き上がってきたのです。今までのような安閑とした生活では、ここを乗り越えることはできない・・・と。今まで以上に坐禅や読経三昧を大切にする生活が始まりました。八正道の中にある正精進、正念、正定の実現ということになるでしょうか。

● 「たき木 はひとなる、さらにかえりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の方位に住して、さきありのちあり、前後ありといえども、前後際断せり・・云々。」(正法眼蔵現成公案より)
 生が変化していって、やがて死になるのではない。生はどこまでも生のみで、その逆もしかり・・ということです。これを素直にとらえると、現在生きている私は、永遠に生きているのであって、やがて死ぬということはないのです。一見矛盾しているようですが、即今の自己を徹底して追求すると、このような理論が成り立ちます。また縁起の理法によって、全ては不生不滅であり空である。したがって私が生まれるとか、死んで無くなるとかいうことは無いということになる。全ては縁起の理法としての相互依存関係が無限に展開しているのみで、本来、私という自我、自性、独自性といったものは無いのですから無我、その状態が空です。これが不生不滅の真理だということです。

● 次は正法眼蔵「生死の巻」の一節です。
 「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへに投げ入れて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ佛となる。・・・云々。」
 「縁起、空」の実践的言葉ですから、坐禅の姿勢をとって生死の巻を読誦することにより、より深く直接的に自分のこととして味わうことができます。

● 道元禅師のご最後は大変感動的です。
 建長5年の秋、道元禅師は病を得て、永平寺の大檀那である、波多野義重公の勧めで、療養のため山を下りて上洛しました。京都の信徒の家に一時身をよせて療養していましたが、病は次第に悪化していくのみでした。そして、建長5年8月28日、道元禅師は幽明の境を行き来しながら、法華経の如来神力品の一節を、部屋の柱に書き付けて、それを称えながら静かに息を引き取ったと言われています。
 建撕記によれば、室内を経行されると、低い声にて経を誦されていた、それは、「若於園中。若於樹下。若於僧坊。若白衣舎。若在殿堂。若山谷廣野。是中皆応塔供養。所以物何。塔知是所即是道場。諸佛於是転於是論。諸佛於此而般涅槃。」というものであり・・・云々。
 何処にいても、どのような状況でも、そこが道場であり、諸佛はそこで法輪を転じ、そこで涅槃を得たということです。道元禅師は死の寸前という状況にあっても、法華経の神力品を誦して、修証一如、即今の自己、不生不滅の生涯を実現されたのです。

● 十二支縁起でみる生死
 十二支縁起は、苦が如何にして生じ滅するかということを分析して、十二の条件、縁によって明らかにしたものです。十二支とは無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死です(流転門の縁起)。最後の老死がなぜ生ずるかということから考察すると、逆にたどって、老死は生により、生は有により・・・行は無明により生じるということになります。したがって今度は最初から順番に、無明の滅によって行の滅が生じ、行の滅によって識の滅があり・・・有の滅により生の滅があり、生の滅により老死滅す。ということになります。こういった縁起は、原因(無明)の消滅から結果(老死)の消滅の方向へ思索(瞑想)しますので、これが還滅門の縁起と言われているものす。要するに生によって老死という苦が発生し、苦の原因を突き詰めていくと無明であるということです。無明とは縁起と空の理法による般若の智慧が無いということです。「慧玄が舎裏に生死無し」という関山国師の宣言は、般若の智慧(縁起の理法空)によって、私の処には生死の苦は無いと宣言されたのでしょう。

● 曲がり角の先には素晴らしいものがあった。
 癌の宣告を受けて2、3日して深刻な状態が静まってきました。やがて癌の克服に向かって私の心身が今までに無く真剣に充実してきたように思いました。そして、十日程経過した頃、転移しているかどうかの検査が始まりました。脊椎に転移していたら、かなり深刻なことになるところでしたが、転移は無いということが判明し、ほっとしました。
 しかし、折角真剣な生き方をしようと意気込んでいた矢先、元の木阿弥になったような、気が抜けたような感じもしました。
 その後、放射線治療が一ヶ月半に渡って続きましたが、無事終了することができました。病院への送り迎えなど、家族の支えの有り難さを痛感しているこの頃です。




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