講話 桐 山 紘 一
般若心経の主題である「空」についてお話します。
まず般若心経の書き下し文を、みんなで声をそろえて読んでみましょう。
この書き下し文は釈迦牟尼会の森本稚堂老師の訳で、声を出して読むのに大変読み易く、リズミカルに出来ていてるので、読誦用の名訳だと思います。これを何回も読誦していくと、いつの間にか意味が解ってきますし、般若心経の命であ「空」の本当の意味が納得されてくると思います。
教本の持ち方は、教本の真中に両親指を入れて、合掌するようにして目の高さまで持ち上げます。次ぎに顎を引いて坐禅と同じ姿勢になり、目を据えて腹の底から声を出して朗々と読誦していきます。読誦する時は全てを忘れて徹底して読誦する。笑うときは徹底して笑う。食べるときは徹底して味わって食べる。教本の持ち方一つ、お教の読誦の仕方一つ、そのものになり切て行うのが禅です。
このように読誦することを身読と言います。教典の読み方は身読することによって、理解は後から自然についてくるような読み方が良いと思います。
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○摩訶般若波羅蜜多心経
「摩訶」というのは、「大いなる」という意味です。サンスクリット語で「マッハー」。ロケット等の速さの単位を「マッハ」と言いますが、元の意味は「非常に大きな」とか「偉大な」ということです。「般若」というのは「智慧」。パリー語で「パンニャー」と言います。サンスクリット語では「プラジュニャー」。プラチナ(洋銀)と言う金属がありますが、本来の意味は「知慧」のことです。
「波羅蜜多」は、パリー語で「パーラミター」と読むのだそうですが、「完成」ということ。「心」とは「核心」とか「心髄」と行った意味です。まとめると「大いなる智慧の完成をする核心の教え」ということになります。
○観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時に、
求道者(観世音菩薩)が坐禅を行ずる時に、(坐禅を含めた六波羅密のことですから坐禅と限定できないが)つまり修行している時に。
○五蘊皆空を照見して一切の苦厄を度し給えり。
五蘊というのは色・受・想・行・識、人間の感覚とか、物とか、ありとあらゆる現象とかそういうもの一切合切含めて、「空」であると徹見したのです。
「修行」することと「空」ということが、ここで同時に説かれていることは重要だと思います。つまり「空」と言う言葉や概念をいくら分析してみても何も出てこない。「空」というのは、「行」と一つになって初めて現わとなり捉えられる、という真実をここで強調しているのです。「行ずる時に」のその状況が「空」であると言っても良いと思います。
そうして「一切の苦厄を度し給えり。」一切の苦しみ(四苦八苦)を越えてしまったと言うわけです。「空」というのはそれほど偉大な力がある訳です。「舎利子よ!」例えば、私は桐山という名前ですが、「桐山よ!」こういう風に自分に呼びかけていると思って読むと良いと思います。
○色はそのまま是空、空はそのまま是色
色だけでは色は成立しない。空を通して色が解る。色を通してまた空が解る。色は空であって、空は色である。言葉面だけ見ていると、何を言っているのかよく解りかりません。非常に難しいと言えば難しい、ある意味では簡単でもあるということですが、この事が解ったら、仏教の全てが解ったと言っても良いと思います。
色とは何かというと、ありとあらゆる物、テーブルも畳みも、私達の肉体も、髪の毛も、雨も大地も地球も、宇宙ありとあらゆる物、また形の無いさまざまの現象、人間の精神作用まで含めた全てを色と言います。そういう全てのものが空だというわけです。空の表面的意味は、「虚ろで中がからっぽ」ということで、何も無いというような意味ですが、それはいったいどういうことでしょうか。「色はそのまま空」「空はそのまま色」というのは、つまりテーブルがからっぽで、からっぽがテーブルだ、そういうことを言っているのですが・・・・。 全ての実在(色)は無(からっぽの空)を媒介にして、新たに蘇って真の実在(真空)となっているのですが、このように有・無を越えたところに働く実在を「真空」と呼んで、からっぽの「空」と区別して考えたいと思います。AはAで無くしてAであるという鈴木大拙氏の「即非」の論理はこの状況を説明したものです。
○空としての縁起
私ごとで、まことに恐縮ですが、曾て何日か続けて坐禅をしたことがあって、そのとき、般若心経をとにかく読んでみようと、坐禅スタイルで何十回も読誦したことがあります。声が出なくなると、また坐禅をしたりしていました。その時に気がついたことがありました。「空」ということはこういうことなのかと、よくよく納得したと思うことがありました。
「空」というのは、 「何も無いことなんだけれど、無いということでも無い。ありながら無いということだ。」 ということが解ったのです。
つまり「空」の背景に連綿と広がっている「縁起」と言うことに気がついたのです。別の言い方で「因果」という言葉もありますが、同じ意味だと思います。お釈迦様の教えは「縁起」の教えだと言われているくらい、重要な概念なのですが、それはどういうことかというと、Aが在るからBが在る。Bが在るからCが在る。例えば親がいるから子供が生まれる。子供が生まれるから、おむつを買わなくてはいけない。おむつを買わなくてはいけないから、お金がかかる。こういう原因と結果によって、ズーッと流れていく。そういう状況を「縁起」と言っても良いと思います。例は良くありませんが、そういう「縁起の法」によって、全ては「空」であるということに気が付いたのです。
「縁起」は、一種の「法則」とも言えます。光などが発生すると、規則正しい法則の波動で四方八方に伝わっていく。また物質は絶えず変化していく、たとえば酸化していく、溶けていく、結晶していく等、一つとして常住な物はありません。
このように色々な現象が複雑に絡みあって、物質が絶えず一定の法則にしたがって変化していく。つまり「色」として固定したものは無い、あるのは働きとしての法則「縁起」だけしか無いということです。これは人間の意志に拘わりなく、絶えず働き通しに働いているのです。勿論人間の意志や、感情などの精神作用も、全て縁起として働いていると言えます。
○仏教の科学性
「実在は流転してしばらくも留まることのなき出来事の連続である。」 これは西田幾多郎先生の言葉ですが、働きとしての縁起を端的に言い表していると思います。そこまで納得できると、「色はそのまま是空」という、「色」としての「空」が蘇ってき
ます。先にその空を「真空」と呼びましたが、そのような立場に立つと、結局「空」と言っても「色」と言っても、同じ事の両面に過ぎないということが、はっきりしてきます。
ここにテーブルが在ると思っていますが、これは一つの縁起のポイントであって、ナイフで削れば塵になってしまいます。あと百年もすれば無くなってしまうかも知れません。ただ何らかの物質がここに集積して、たまたま一つの形ができているだけであって、テーブルと言う固有の本体はない。あるのは順序よく、しかも間違いなく流れている「縁起の法」があるだけだと言うことです。縁起の法があるから、全てのものは実体がなく空であるという訳です。「色はそのまま是空」ということです。
我々の生命もそうです。命は、前述のような簡単な言葉では割り切れない非常に複雑な関係で、宇宙と共に生成発展してきたものですが、とても人間の科学では分析できない素晴らしい働きや、現象の総合的な営みです。
命の営みがこの宇宙に生まれた瞬間、そして少しずつ形成されていく過程、そういうものは、みな我々人間の意志で行われているものではなくて、そういう法ですね。キリスト教では、それを「神の創造」として全てを神に委ねています。ところが仏教では全ての現象は、必ず原因と結果があるという「縁起の法」として捉えています。ことばを変えて言えば「ありのままの事実」として捉えるわけです。これを仏教の科学性と呼びたいと思います。
さて、どこからその法が流れ出したかというと、約150億年前、ビックバーンがあって、そこから光の波動となってすべてが発生してきました。我々の生命活動も全て、光の波動だと言っている学者もあるくらいです。そして約50億年前にようやく地球が誕生し、そういう縁起の法によってそこから連綿と連なって、それら全てを背負った最先端が今の「私」・「ここ」というわけです。
○空間的広がりとしての縁起
縁起の法には、今まで述べてきたような時間的な縁起があります。それからもう一つは、空間的な広がりとしての縁起があります。
空間的な広がりというと、例えばここに紙が在る。この一時点だけを見ていると、紙が在っても別にどうということはないが、ここに紙を在らしむるためには、空気がないと存在しない。またここにテーブルが無いと存在しない。テーブルがここに在るから、紙がここに在る。そういう依存関係としての縁起です。テーブルがここに在るためには、下に床がないと存在しない。また、このテーブルは、この部屋・家屋がないと存在しない。このテーブルは、人類の長い文化発展によって作り出され、ようやくここにテーブルが在る。このテーブルの材料はプラスティックが使われているから原料は石油です。石油はどうやってできたかというと、地球の生成発展から全部に繋がっている。そういうものが一切合切含まれてここにテーブル在る。これが在るためにはそれが在る。それが在るためにはあれが在る。ありとあらゆる物、また何かの現象・精神作用でも、時間空間を含んだ宇宙全部を背負って、そっくりそのまま「ここ」に現れているのです。仏教ではそのことを「一即一切、一切即一」「一念三千」などと言う華厳哲学の中心思想となっています。
このように「縁起の法」によって、すべてのものは時間的に空間的に広がり、関係し合い、止まることなく流転している「出来事の連続」であると言えます。紙、ここに在ると思っていますが、本当は無い。在るのは、そういう歴史上の流れの一点に紙という人間が決めた言葉の概念が在るだけで、紙自体はここに無いのです。「 在りながら無い 」としか言いようのない「空」の姿です。先にそれを「生きているありのままの自分」という言葉で表しました。
○相反する二つの依存関係としての縁起
お釈迦様が亡くなられてから、弟子達がお釈迦様はこう説かれたと言って、でき上がったのが阿含経などの原始経典です。その中に「空」としての「縁起」が説いてあります。「これ有ればかれ有り。これ無ければかれ無し。これ滅すればかれ滅す。これ生ずればかれ生ず」そういう縁起の法です。
例えば、山が有れば谷が有ります。山が生ずれば必ず谷も同時に生じます。山と谷というのは、縁起の法則によって裏腹の関係になっているのです。楽あれば苦あり。楽があるところには、必ず苦しみが有ります。苦しみを越えない楽は有り得ない。楽だけ追求し、それにどっぷり浸かっていると、ノイローゼになって自分で勝手に苦しみを作り出すようになり、それで漸くバランスがとれているのでしょう。
そのように人間の心や体は、山が有れば必ず谷が有るように本来できているのです。それが縁起の法です。だから、苦しみが来ても平然として苦しみを越えていくことができる。と言うより、すでに「越えている」と言った方が正しいでしょう。
このような「空」の立場に立つと、総ての存在は(精神作用も含めて)相反する二つの依存関係(縁起)によって成立していることが歴然と見えてくるでしょう。上下・明暗・生死・快不快・苦楽・色空・・・・・等々。そうして、一方のみにとらわれることなく、苦しみを即、楽しみと捉え、楽しみも即、苦しみと捉え、自由自在に生きることができるようになるはずです。
ここまできて、「縁起」そのものも結局、「空」と相対する概念として捉えることができるわけですが、大変複雑になりそうですので別の機会に明らかにして見たいと思います。
○五蘊皆空を照見して一切の苦厄を度し給えり
「空」を照見して、一切の苦しみを越えることができたというのが、この般若心経の冒頭の宣言です。
全ての宇宙の働き、「空」を本当に捉えることができると、人間もっとおおらかに伸び伸びと全ての物を生かして、真に生きることができるでしょう。財産だとか、名誉だとか全然比べものにならない「空」、これほど尊いものはないということを発見されたお釈迦様は「奇なるかな奇なるかな一切の衆生、如来の智慧徳相を具有す」と感嘆されたのです。
たった一つの埃、紙屑一枚、良い物も悪いも物も、きれいな物も汚い物も、宇宙一切合切をそっくりそのままを含んで、ここに実在している。
したがって「空」とは、何にも無い空虚な姿ではなく、総てのものを生かして働く智慧、摩訶般若波羅蜜多でありましょう。
心経の最後には有名な咒(真言)があります。これはサンスクリット語の音をそのまま漢字に当てはめた音訳ですが、相対的な人間の先入観や、言葉の解釈を打破するような力が、この真言には託されているように思います。従ってこの真言を唱える(行ずる)ことによって、般若「空」の智慧が身心に如現して来ると思います。般若心経を読誦したら、この真言の部分だけをひたすら繰り返して読誦してみたらいかがでしょう。
羯諦羯諦 (往けるものよ 往けるものよ)
波羅羯諦 (彼岸に 往けるものよ)
波羅僧羯諦 (彼岸に全く 往けるものよ)
菩提薩婆訶 (悟りよ 幸あれ) (中村 元 訳)
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