素読・読誦のすすめ


講話 桐 山 紘 一

一.はじめに
  釈迦牟尼会の禅会では般若心経・観音経・証道歌、白隠和尚坐禅和讃等々を読誦します。禅の修行に際して必ず行われている読誦について、どんな意味があるのか、どんな読み方が良いのか体験的に整理してみました。
 「素読」は意味はあまり考えないで、声に出して読むという意味で、より一般的な分かり易い言葉として用いられています。「読誦」は仏教でよく使われますが、その厳密な意味や用法は違うと思われます。ここではあまり立ち入らないで、素読は読誦とほぼ同じ意味として両方をその場に応じて使い分けました。

二.読書百遍意自ずから通ず
  私、三十才位までいろいろの悩みが多く、矢内原忠雄の「キリスト教入門」とか「正法眼蔵」のあちこちを読みあさっていました。しかし言葉としての表面的意味は理解できても、広大な仏法の真意は納得できず、もんもんとしていることが多かったように思います。
 そんなとき長島亀之助先生の教えを受ける機会に恵まれ、読み合わせ会などに参加させていただきました。先生は正法眼蔵の読み方を次のように指導されました。
 「読書百遍意自ずから通ずという言葉があるだろう。とにかく正法眼蔵を百回素読してくるように。」ということです。私は今まで意味は大体分かっていると思っていたのですが、百回素読して来くるようにと言われたからにはやるしかないと思い、半信半疑で取り組んだのです。「現成公案」等は、一回素読するのに二十分位かかります。それが回を重ねる事に十五分になり十分になり、最後は八分で素読できるようになりました。三十回位読むとかなりのスピードで快適に読めるようになり、五十回過ぎると声を出した瞬間に大体意味が分かるようになります。八十回位読むと暗唱してしまいます。
 正法眼蔵の文章は非常に難解だと言われていますが、仏の言葉ですから真言です。その真言によって自分の中に在る仏性が開発されるのだと思います。喜びというか法悦が彷彿と沸いてきて心から納得したという気持ちになります。初めはなかなか喜んで素読するという気持ちになりませんが、回を重ねるごとに充実感がもてるようになり、また素読をしたいと思うようになるのです。一回そういう体験をすると「現成公案」の他に「渓声山色」「弁道話」「普勧坐禅儀」等を一年間に百回位は素読してしまいます。百回の素読が終了した頃、長島先生の話を聞くと、納得できるところが沢山あって、今までの分かり方とは違い、かなり深まっていることが実感できました。声を出して全身で読むと分かり方が違うのだと思います。
 最近話題になっている右の脳を使った分かり方ではないでしょうか。論理的な知的理解は左の脳の分かり方です。経典などの真言は右の脳を動員して読まないと本当の意味は分からないのではないでしょうか。

三.体解としての素読
  歎異抄や教行信証に造詣の深い春原桂次郎先生に、歎異抄はどう読んだらよいか質問したことがございました。答えは「歎異抄の研鑽は一にも素読、二にも素読。そして、自然に暗唱できるところまで素読を重ねることが第一段階であると思います。つまり体解(たいげ・体で分かるということ)であり、知的理解はその補助的手段であろうかと思われます。」
 意味を辞書で調べて分かるというような知的理解の方法だけでは本当のところは分からない。大きな声で素読すると、素読したことが身体で分かるということになるのでしょう。私は長島亀之助先生と春原桂次郎先生に同じように素読の大切さを教えていただきました。お二人共、偉大な仏教者で、しかも修行者であり教育者であったと思います。
 親鸞上人は無量寿経とか阿弥陀経を願をかけて素読(読誦)されております。二百回の読誦達成というようなメモがありますから、親鸞上人が自分の行として経典を読誦する修行を積まれたということが分かります。それを知って私は大変感動いたしました。

四.経典はむしろ読誦すべきものである
 弘法大師空海は「三密加持」ということを言われています。身・口・意を三密と言って、身と口と心で仏様と同じ実践をすることによって、私達の心の中に眠っている仏心が目覚めるというのです。身は仏様と同じ坐禅の実践をしなさい。口は仏様の言葉である真言を唱え、真実を語りなさい。そうすると心身が仏様と同じになるということです。泥棒の行動をすると泥棒の心身になる。例えば万引きをすると最初は非常に悪いことをしたと思いますが、二回目三回目となると一回目より簡単にやるようになります。それと同じように経典を十回読むと、一回読んだときより、すぐ次を読みたくなるものです。良いにつけ悪いにつけ経験が自己を決定していくのです。
 「個人有って経験が有るのではなく、経験が有って個人が有る」という西田幾多郎先生の理念と一致して大変興味深く思います。
 安達忠夫氏は「素読の進め」という著書の中で次のように述べております。「表面的文章としての意味は、意識の表層で理解されるだけですが、何度も声を出して読むことにより、表面的な意味の背後にある潜在意識が培われ、心身に刻まれ浄化されていく。」

五.素読の仕方
 私は自称「循環読み」という方法で、坐禅の前後に素読を行っています。例えば現成公案を全部読むのは大変ですから、一ページ目を三回読む。三回読み終わったら次のページへ行く。疲れたら途中でも止め、次の日その続きを読む。終わりまでいったら初めに戻ってまた三回ずつ読む。そんなふうにして読んでいくのは如何でしょう。 正正正・・・とメモをしていくと何回読んだか分かります。百回読み終える頃には達成感と大きな悦びとに満たされます。
 禅宗は坐禅が示す通り、腰と背骨・胸をのばして良い姿勢をつくり、教本は目の高さまで上げ、深呼吸をして呼吸を整え、目を据えて正座または坐禅の姿勢になり大きな声で堂々と読誦します。
 釈迦牟尼会では坐禅の姿勢で証道歌を読誦しますが、坐禅を主体にして読誦の良さを取り入れた素晴らしい修行の方法ではないでしょうか。稚堂老師は、般若心経や証道歌・坐禅儀の御提唱の前にいつも全員に読誦をさせました。一人ではなく大勢での読誦(唱和)は荘厳な響きに満たされ、また違った充実感があります。
 おしまいになりましたが、素読(読誦)は、言葉の深遠な意味に心身を通して経験的に迫る素晴らしい方法であること。また数息観等の坐禅三昧とまったく同じいとなみであり、意図的に坐禅修行と組み合わせることによって、躍動感のある充実した修行が可能になるのはないかと思います。


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