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あたしには今、ちょっと苦手な人がいる。
ちょっと苦手で……でも、すごく気になる人。
◇
「今日は古文があるのかぁ……」
時間割を確認しながら、あたしはため息をついた。元々、そんなに得意な教科じゃなかったけ
ど、最近になってよりいっそう苦手になってしまった。それは教科の問題じゃないんだけど… …。おかげで、この前の中間テストは散々な結果になってしまった。
何となく重い気持ちで家を出ると、ちょうど隣の家から麻生くんが出て来るのに行き会った。幼
馴染で一つ上の麻生くんは同じ学校の先輩でもある。
「なんだよむぎ、朝から暗いカオしてんな」
並んで歩き始めると、ため息をついたあたしを見て麻生くんが言う。
「うーん……。今日、古文があるんだよね」
そう答えると、麻生くんは意外そうな顔をした。
「あれ? おまえ古文苦手だったっけ。……まぁ俺も好きじゃねぇけどさ。でも、いま女子は古
文って言えば大騒ぎじゃん。何だっけ、この前から担当になった……」
「――松川先生」
それこそがあたしの『苦手』の原因なんだけどな……と思ってみたけど、麻生くんに上手く説明
出来そうもないし。
「ああ、そうそう。クラスの女子がうるせぇのなんのって。古文の前になると、皆いっせいに鏡覗
いてんだぜ? 確かに、前の爺さん先生より教え方は上手いし分かりやすいけどさ」
夏休み前まで古文を担当していた先生が急病とかで、その代わりに二学期からやって来たの
が松川依織先生。背が高く、俳優やモデルって言ってもいいくらいのルックスに、甘い声。そうく れば、女の子たちが騒ぐのはもっともな話で。麻生くんが言った通り、松川先生は休み時間や 放課後ともなれば女の子たちにべったり囲まれている。
あたしは、それを見ると何故かイライラした気持ちになっちゃうんだ。
だって、相手は『先生』だよ? いくらかっこよくても、女の子に囲まれてでれでれしているのっ
て、何か違うと思う。
「……あたし、あんまり好きじゃない」
ボソッと呟くと、麻生くんは笑ってあたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「おまえ、昔っからアマノジャクだよなぁ。小学生の時だって、赤いランドセルはイヤだから黒か
青がいいって駄々こねてさ」
「べ、別にそういうんじゃないもん!」
顔を上げて抗議すると、麻生くんはまだ笑い続けている。そうして、急に軽く咳払いをして言っ
た。
「でも、まぁ俺としては……安心、なんだけどな」
「……安心?」
どういう意味か分からなくて問い返したあたしの頭を軽く叩くと、麻生くんはなぜか頬を染めて
前を向く。
「なんでもねぇよ! ほら、遅刻するから走るぞ!」
のんびり歩いていたら、いつの間にか時計は予鈴の時間近くなっていて。
あたしたちは慌てて学校めがけて走り出したのだった。
「ま……間に合っ……た」
息を切らせながら教室に向かうあたしの後ろで、くすくすと小さな笑い声が聴こえた。
「鈴原さん。遅刻寸前だよ」
その声に振り返って、あたしは思わず顔を引きつらせてしまった。そこに立っていたのは、教科
書や教材を脇に抱えた松川先生で。そういえば、一時間目は古文の授業だったっけ。
「すみま、せん」
小さく謝って教室に入ろうとするあたしを、松川先生は引き止める。
「待ちなさい。髪の毛が乱れているよ」
そう言って、手馴れたようにあたしの髪に手を伸ばしてきた。あたしは咄嗟にその手を避けてし
まう。
「あ、ありがとうございます。でも自分で出来ますから」
松川先生は驚いた様子だったけど、いつもの笑顔のまま微笑んだ。
「そう。乱れたままの君も魅力的だと思うけれどね」
矛盾したことを言って微笑む松川先生に、あたしは仏頂面のまま。何を言っているの? この
人は。やっぱり、色んな女の子や女の人にそういうこと言い馴れてるに違いない。
あたしは先生から逃げるように教室の中に入った。
背中で、まだくすくすと笑われているのを不快に感じながら。
「さる憂きことやあらむとも知らず、心に忘れずながら、消息などもせで久しくはべりしに、むげ
に思ひしをれて、心細かりければ、幼き者などもありしに、思ひわづらひて、撫子の花を折りて おこせたりし」
よく通る声が、古文の一節を読み上げる。あたしの周りの女子はみんなうっとりと聞き惚れて
いるのが分かった。隣に座っている親友の夏実でさえも。
「これは、源氏の君が頭中将たちと『雨夜の品定め』をしているシーンだね。つまり、男たちが
『どんな女性が好ましいか』を話し合っているというところだ。男子諸君にも覚えがあるんじゃな いのかな?」
松川先生の言葉に、どっと笑いが起きる。彼は、こうして何気なく人の気持ちを掴むのが上手
い。
「ここでは、頭中将が自身の体験を語る。正妻の迫害に遭って別れることになった女性の話
だ。この部分をとって、女性は『撫子の女』と呼ばれるのだけれど、その女性が後に源氏と出 会う『夕顔の君』なんだよ」
今古文の授業で扱っているのは『源氏物語』。光輝く源氏の君の華やかな女性遍歴を描いた
王朝絵巻……なんて、教科書には載っていたけれど、ただのプレイボーイの話じゃない。
そう。
まるで、光源氏は松川先生みたい。
だからあたしは、『源氏物語』も大嫌い。
「……さん」
あたしはぼんやりと窓の外を見ていた。空が高くなって、もうトンボが飛んでいる。いつの間に
か秋になったんだなぁ……。
「……原さん。鈴原さん?」
そこでようやく、あたしは自分が呼ばれていることに気付いてハッと顔を上げた。すると、目の
前に松川先生が立ってにっこりとあたしを見ている。
「物思いに耽っていたところをごめんね。この『消息』とは何のことか分かるかな?」
どうやらあたしは、指名されていたらしい。教科書からも目を離していたんだから、いったい何
のことか分からない。慌てて教科書のその部分で漢字だけを確認したあたしは答えた。
「生きているとか、いないとか?」
その答えに、教室のあちこちでくすくすと笑いが起きる。全然見当違いだったみたいで真っ赤
になっているあたしに松川先生は言った。
「ここでの意味は少し違うけれど、でも惜しい。現代ではそういう意味で『消息』は使われている
しね。元々は『手紙』という意味だよ。無事を知らせてやる、という意味では十分に通じるから」
悔しいことに、松川先生はこういうフォローも上手いんだ。前の古文の先生は気難しい年配の
先生で、間違えたりするとすぐにお説教されたりしたんだけど、松川先生は絶対にそういうこと はしない。上手くフォローしてくれるから、間違えても大したことないって、心がラクになる。そう いうところも、人気の秘密なんだろうなぁ。
「今度はしっかり僕の話を聞いていてくれると嬉しいな、鈴原さん? さて、じゃあ続きを読もう
か」
何となく松川先生に負けたような気持ちで、悔しくなりながら。あたしは教科書に視線を戻した
のだった。
その日の放課後、掃除当番だったあたしはゴミを捨てに裏庭へと向かった。そしてその帰り
道、うっかりつまずいて膝を軽く擦り剥いてしまった。
「痛……」
少し血が滲んでいるけど、保健室に行くまでもないと思い、カバンの中に入っている絆創膏を
貼っておこうと立ち上がったあたしの前に。ぽとん、と何かが落ちてきた。
「何、これ」
拾い上げると、黒い手帳。どこから落ちて来たんだろうときょろきょろ上を見上げると、二階の
教室の窓から誰かが手を振っている。
「ごめん、鈴原さん。それ、僕の手帳なんだ。悪いけど、ここまで持って来てくれるかな?」
それは、松川先生だった。
拾ってしまった以上、イヤとは言えずに、あたしは教室にゴミ箱を戻すと仕方なく松川先生のい
る国語科の準備室へと向かった。
「悪いね、鈴原さん。わざわざありがとう」
あたしの差し出した手帳を受け取ると、松川先生は微笑んであたしにソファにかけるようにと言
った。
「いえ。あたしもう帰りますから」
そう答えたあたしを、無理矢理ソファに座らせる。
「松川先生!?」
「足、見せてごらん」
松川先生は突然あたしにそう言った。
「え……?」
戸惑うあたしに、松川先生は苦笑する。
「さっき、転んだだろう? そのままにしておいてはよくないよ」
あたしは頬が熱くなっていくのを感じた。もしかして、全部見られていたんだろうか。
「簡単な消毒くらいなら出来るから」
有無を言わさず、松川先生はあたしの膝に触れた。
「いっ……」
「ほら見なさい。痛いんだろう? 小さな傷だと侮っては後で大変なことになったりもするんだ
よ」
濡れたハンカチであたしの傷口を拭うと、その上から消毒液をつける。そして松川先生は傷口
に絆創膏を貼ってくれた。
「はい、出来上がり」
そう言って松川先生は微笑んだ。
もしかして。
先生は、わざと手帳を落としたんだろうか。
あたしの傷の手当てをするために……?
そう思いかけたあたしは、慌てて首を振る。
こんなの、偶然に決まってる。それに、あたしじゃなくても誰かが怪我をしたら同じように先生は
手当てしたに違いないから。
「そういえば鈴原さんは、古文が嫌いなのかな」
消毒液なんかを片付けながら、松川先生があたしに訊ねた。
「え……?」
「フフ。古文の授業中、つまらなそうに窓の外を見ているから」
気まずくなって、あたしは俯いた。実際今日も当てられて答えられなかったわけだし。
「確かに文法はややこしいし、読み慣れない言葉だしね。でも、それで嫌われるのは淋しいな。
古典の文章って、読んでみるとなかなかに楽しいし興味深いんだよ。現代の小説と同じ感覚で 読めばいい」
そんなことを言われても。
「特に『源氏物語』は千年経った今でも読み継がれている名作だよ。何度読んでも違う発見が
ある」
かけていた眼鏡を外して、松川先生は言った。だけどあたしはそれに反抗してしまう。
「源氏の君は、嫌いです。ただの浮気者じゃないですか」
まるで松川先生が源氏の君本人ででもあるように。
あたしがぶつけた言葉に、松川先生は一瞬呆気に取られたような表情をして、笑い出す。
「あははは、そうか。浮気者……か。まぁ、確かにそう取られても無理はないけれど……。で
も、そう捉えるのは早急すぎるよ。教科書に載っているだけの『源氏物語』じゃ、源氏の君を 『浮気者』と決め付けることは出来ないだろう?」
松川先生が、あたしの顔を覗き込むようにして言った。思わずどきん、と鳴った心臓の動きを
無視して、あたしは横を向く。
「だって……。あたしはそれしか知らないし」
ものすごく長い『源氏物語』を全部読む気も起きないし。
すると、松川先生は名案を思いついたように言った。
「じゃあ、僕が君に『源氏物語』を講義しよう。水曜日と金曜日の放課後、ここで」
突然の提案に、今度はあたしが呆気に取られる番だった。
「はぁ!? ちょ……何言ってるんですか!」
「うん、それが一番手っ取り早い。君に源氏の君を誤解されたままじゃ、悲しいしね」
あたしは大きく首を振った。
「い、いいです! そんなの結構です!」
二人きりだなんて、そんなの絶対に無理! せっかくの放課後を古典の講義で潰したくなんて
ない。
「遠慮しなくていいよ。それに……鈴原さん、前回の中間テストの古文、何点だったか覚えてい
るかな?」
松川先生に言われて、あたしはドキッとした。散々な結果だったあの中間テスト。追試がなくて
ラッキーだと思っていたんだけど。
「僕の方針として、追試は行わないつもりだったんだけど、そのままというのもまずいからね。
決めた。君への課題はこれにしよう」
それでも首を振り続けるあたしに、松川先生はとどめの必殺スマイルで言った。
「鈴原さん。この学園って、一つでも単位を落としたら進級出来ないってこと知っていたかな?」
……残念なことに、知っていました。それを切り札に出されるなんて……。
「早速明日の放課後から始めるから。サボらないようにね」
こうして。
あたしと松川先生の『特別補習』が幕を開けることになってしまったのだった。
◇
「……あたし、やっぱり嫌いです。源氏の君」
それは、何回目かの『補習』の時。松川先生に今日は『若紫』を講義してもらった後だった。先
生はカップにコーヒーを注ぐと、あたしにも渡してくれる。
最初はイヤで仕方がなかった補習も、最近では最初ほどイヤではなくなってきている。
ううん、むしろちょっと楽しみにしているくらいで。
女の子に囲まれてでれでれしていると思い込んでいた松川先生は、意外にもそんなに浮つい
た人じゃなく、ちゃんとした『先生』なんだって。あたしが認識を改めた……っていうのもあるか もしれない。
それでもやっぱり、源氏の君の行動は理解出来ない。
「そう? どんなところが?」
あたしの口癖にも馴れてしまったように、松川先生は訊く。
「だって、結局どんな女の人も『藤壺の宮』の代わりってことでしょう? この若紫だってそう。た
だ、藤壺に似ていたから引き取るんでしょ?」
北山で、源氏の君が藤壺の宮によく似た少女、若紫と出会うシーン。ただ似ているから……な
んて、何だか不純な動機で若紫だって可哀想。
「うーん……。確かに、源氏の行動の裏にはいつも『藤壺の宮』がいる。それは僕も否定出来
ないところだね。だけど……」
カップを置いた松川先生は、どこか遠い目をした。
「それだけじゃないんだ。彼は……」
そして、その視線をあたしに向ける。じっと見つめられて、あたしはどぎまぎしてしまった。
「か、彼は?」
慌てて聞き返したあたしに、松川先生はフッと笑う。
「……いや。それはまた今度の補習で話そうか。そういえば、鈴原さん」
そして話題を変えるように言った松川先生は、悪戯めいた瞳になってあたしを見た。
「そろそろ、僕のことは嫌いじゃなくなってくれたかな?」
「〜〜〜〜〜っ!」
不意を突かれて、あたしは口をぱくぱくと動かすことしか出来なかった。
どうして?
あたし、源氏は嫌いだって言ったけど、先生のことを嫌いとは一言も言ってなかったと思うの
に!
「どうして? って顔をしているね。そりゃあ分かるよ。僕を見るたびに、あんなしかめっ面をさ
れては……ね。授業中は窓の外ばかり見ているし」
恥ずかしくなってあたしは俯いた。もしかしたら、松川先生は最初から気付いていたのかもしれ
ない。
「あ、あの……」
「でも僕は、ずっと君と話してみたかったんだ。この子に古典を好きにならせてみせるぞ、って
ね」
穏やかな瞳で、松川先生はあたしを見る。
「覚えていないかな。僕が最初にこの学園に来た時、学園の中で迷っていた僕に、君は丁寧に
職員室を教えてくれたよ。その時の君の笑顔が、忘れられなかった」
……覚えてる。
その時は松川先生が新しい先生だなんて知らなくて。
スーツ姿がかっこいいって……本当は心の中でドキドキしていた。
だから、なのかな。
松川先生が教師だってわかって、女の子たちに囲まれているのを見て。あたしはただ、イライ
ラしてもやもやする気分を抱えていた。そんな気持ちになるのは松川先生が嫌いだからだって ……そう思い込んでいた。
でも。
違ったのかもしれない。
あたしは、本当は――。
「べ、別に嫌いじゃ……ないですよ?」
素直になれないあたしは、先生から目をそらしたまま答えた。
「だって先生は『先生』だし……」
そう答えたあたしに、松川先生はどこか苦しそうな表情で微笑んだ。
「――そう。僕は『先生』だ。でもね、鈴原さん。僕は『教師』である前に、『松川依織』という男な
んだよ。そして」
真摯な瞳で、松川先生はあたしをじっと見つめる。
「鈴原さん。さっき言いかけたことを教えてあげようか。源氏はなぜ彷徨うように色々な女性を
求めたか。彼は……求めていたんだ。たった一人の女性を。心の底から愛し、そして彼を愛し てくれるたった一人を。僕は、それが若紫だったと思っている」
そう言うと、松川先生はあたしの頬に手を伸ばした。
あたしは金縛りにあったみたいに動けなくなる。
「僕も求めていたよ。僕だけの『若紫』を――」
松川先生が触れた頬が熱い。そして、ゆっくりと先生の顔が近づいてくる。
「せんせ……」
その言葉は、松川先生の唇に封じられていた。キスされているんだと気付いたのは、ずっと後
で。
苦しいくらいのくちづけ。呼吸も許されないほどの。
ほんの少し唇を開けば、そこから先生の舌が這入り込んで来る。
「んっ……! んぅ……」
逃げようとするあたしを、先生が抱きすくめる。優しく奪うように、先生は深いキスに変えてき
た。
頭の芯が、溶けてしまいそう。
これ以上先生にキスされていたら。
貪られ、息を弾ませるあたしを見て、ようやく先生は唇を解放してくれた。
「……っ……」
信じられない思いで松川先生を見つめると、先生の濡れた唇が動く。
それは、「むぎ」……と。あたしを呼んだように思えた。
頭に血が上ってしまったあたしは、立ち上がるとそのまま準備室を飛び出す。
混乱していて、今自分に何が起きたのか分からない。
あたし……今、先生とキスした……の?
「なんで……っ!」
ぽろぽろと、涙が零れてくる。イヤだったんじゃない。ただ……信じられなかっただけ。
どうして松川先生があたしにキスをするのか、理解出来なかった。
そのままあたしは家に帰った。
頭の中は「どうして?」でいっぱいで、ぐるぐるしてたけど。
先生に触れられた唇は、熱いままだった。
◇
土曜日、日曜日が終わり、月曜日がやって来る。こんなに学校に行きにくいって思ったのは初
めてかもしれない。あたし、どんな顔をして先生に会えばいいんだろう。絶対、顔を見た瞬間真 っ赤になってしまうに違いない。
それでも、先生に逢わなかったこの二日で分かったことがある。
あたし……やっぱり、松川先生が好きなんだ。
もう、ずっと前から。
あたしは、松川先生が好きだったんだ。
それを自覚してしまっただけに、やっぱり松川先生には顔を合わせにくい。
小さなため息をついて、あたしは学校へ向かった。
今日は古文の授業がなかったし、月曜日だから例の『補習』もない。
先生に会いにくいとは思っていたからそれはラッキーなはずなんだけど……。でも落ち着かなく
て、あたしは結局放課後いつもの準備室にやって来てしまった。先生がここにいるとは限らな いのに。
ドアの前で大きく深呼吸をすると、ノックしようと手を前に出す。その時あたしは、そのドアが少
し開いていることに気がついた。中から話し声がすることにも。
あたしはノックするのをやめて、中の様子をうかがった。
すると。
「先生……あたし……っ」
女の子の声が聴こえる。そして、小さな物音がしてその子が先生に抱きついたみたいだった。
「!」
あたしは思わず息を呑む。
「丘崎さん」
さらに驚いたことに、その女生徒は親友の夏実だったんだ。
先生も、夏実を抱き返したみたいだった。
それを見ただけで、もう十分すぎるほどにわかってしまう。
やっぱり。
先生にとってあたしは、「たった一人の存在」なんかじゃない。あんなキスを特別に思っていた
のがバカみたい。
松川先生は、やっぱり源氏の君だ。
誰にでもああやって……探してるんでしょう? 「若紫」を。
悔しくて、悲しくて。あたしはもう、どうしていいのか分からなかった。ドアを開けることなく、あた
しは準備室の前から立ち去って……カバンを掴んで教室を出る。
「むぎ!? 何だよ、おまえどうしたんだ?」
その時、廊下で麻生くんとすれ違った。驚いたようにあたしの腕を引き止めた。
「泣いてんのか?」
その問いに、あたしは激しく首を振る。
泣いてなんかいない。
あんな人のために、涙なんか流さない。
あたしは唇を噛んで拳を握り締めた。ああ、殴ってやればよかったかもしれない。そんなことを
考えたら少し笑えた。
「ちょっと待ってろ。俺も今帰るとこだからさ。一緒に帰ろうぜ」
麻生くんは自分のカバンを取ってくると、すぐにあたしと並んで歩き出す。しばらく歩いてから、
麻生くんが訊いた。
「何があったんだ?」
あたしは、黙って首を振った。
「……俺にも言えねぇことか」
あたしの頭を、麻生くんが優しく撫でる。
「まあいいや。覚えとけよ、むぎ。何があっても、俺だけはおまえの味方だからな」
麻生くんの言葉に、泣きたくなりながらも。
あたしは家に帰るまで泣かなかった。
泣いたりなんかしない。
絶対に。
それからあたしは、徹底的に松川先生を避け始めた。
水曜日と金曜日の『補習』に行かなくなったのはもちろん、授業にだって出なかった。仕方ない
じゃない、古文の授業の前にはなぜかお腹や頭が痛くなったりするんだもの。
そうやって一週間が過ぎてまた水曜日の昼下がり。今日は昼休みの後に古文の授業があった
から、あたしは昼休みからずっと図書館に籠もることにした。図書館の一番奥の棚のあたりは 誰も来ない絶好のスペースだ。置いてあるのも古い古典全集だったりするから、まず見つかる 心配はない。
あたしは絨毯の敷かれた床に腰を下ろし、ぼんやりと本棚に視線を這わせた。そこで、あたし
はイヤなものを見つけてしまう。
『古典文学大系 源氏物語』
こんなところにまで追いかけて来るなんて。当然のことながら、あたしはあれ以来『源氏物語』
も『源氏の君』も前以上に嫌いになっていた。
「何がそれだけじゃない、よ。結局浮気なプレイボーイじゃない」
あたしは毒づいて、本に向かって舌を出して見せる。我ながら子供っぽいって思いながら。
「やれやれ。ひどい言われようだね」
その時。
頭の上から声が降ってくる。今一番聴きたくない人の声が。
「やっと見つけたよ。今日こそは逃がさない」
慌てて立ち上がろうとしたあたしの肩を本棚に押し付けて、低い声で松川先生が言った。
「っ……! 今、古文の授業中じゃないんですか? こんなところに来て……」
「その言葉をそっくり君にお返しするよ。よくもまぁ、僕から逃げ続けてくれたものだ」
松川先生は額に汗を浮かべていた。あたしを探していたというのは本当だろう。
「……嫌いだから」
あたしは先生の顔を見ずに呟いた。
「源氏も先生も嫌いです! だから授業にも補習にも出たくありません!」
その言葉を聞いて、先生はしばらく黙ってしまった。
そして、不意にあたしの顎を掴んで上向かせる。
「何するんですか!」
「嘘つき。そういうことは、僕の顔を見て言ってごらん」
射すくめるように瞳を覗かれ、慌てて顔をそらそうとしても許してもらえない。
「嫌い、嫌いっ……大嫌い! 先生も源氏も、ただの浮気者じゃない!」
悔しくて、堪えていた涙が溢れ出す。こんな人のために泣いてなんかやらないって決めたの
に、ぽろぽろと。
「僕が浮気者? 酷いな……何を根拠に?」
ぬけぬけと言う先生を、あたしは睨みつけた。
「見たんだから! 準備室で、夏実を抱き締めてた。また、同じことを言うんでしょう? 『君が
僕の若紫だ』って。あんなの信じたあたしがバカだった!」
先生の腕の中で、あたしはもがいた。すると先生は、ため息をつく。
「あの時、見ていたのか……。丘崎さんに告白された。それは本当だよ」
「っ!」
だったら、何を言い逃れる必要があるの?
こんなところにまで、あたしを探しに来たりして。放っておけばいいのに。自分を慕ってくる女の
子たちと仲良くすればいい。
「だけど断った。当たり前だろう? 僕にはもう、心に決めた『若紫』がいる」
あたしの顎を捉えていた指が、すっと唇に触れる。
「この前の口吻けも疑った? 僕があんなキスを、誰にでもする男だと思う?」
「違うんですか?」
切り返すように言って睨んだあたしに、松川先生は苦笑した。
「まいったね。どう言えば信じてもらえるんだろう。僕はようやく、たった一人の『若紫』を見つけ
たと思っていたのに。ねえ……むぎ」
名前を呼ばれて、胸の奥が切なく鳴る。そう呼ばれたのは、初めてだった。
「『補習』だなんて口実さ。少しでも君と一緒にいたかった。僕のことを『大嫌い』だという女の子
とね」
そうやって源氏の君みたいに口説けばいいと思って。
でも、あたしの心が揺れているのも本当。悔しいことに。
「僕から逃げ続ける困った女生徒を探しに、授業まで放り出して来てしまったよ。いったい、どう
すればこの姫君は振り向いてくれるのだろう」
頬を両手で包まれる。
松川先生はあたしをじっと見つめていた。その瞳に、あたしだけが映っている。
「もう一度訊くよ。本当に、僕のことが嫌いかい? むぎ」
……その甘い言葉に、あたしが逆らえたらよかったのに。
ぐらぐら揺れている心は、もう完全に先生に傾こうとしていた。
「僕は好きだ。君のことが……。君を狂おしいほど、求めている」
ああ、もう。
絶対、逃げて逃げて……逃げてやるって、思っていたのに。
あたしはどうしてこんなに弱いんだろう。
このあたたかな手に、抗えないだなんて。
「本当にずるいですね、先生は。そうやって、『嫌い』って言えなくするんだから」
あたしは拗ねたようにそう答えた。それを聴いた先生は、これまで見たどんな笑顔よりも魅惑
的に微笑んであたしを抱き締める。
「言わせないさ。君に『好きだ』と言ってもらえるまでは……ね」
そうして。
先生の顔がゆっくりと近づいてくる。その唇がどれだけ甘いか知っているあたしは、拒むことも
出来ない。
「むぎ」
口吻ける瞬間、先生は言った。
「僕だけの『若紫』になりなさい」
その答えは。
あたしに触れた、先生の唇だけが知っている。
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<END?>
依織誕生日企画第一弾! テーマは「松川依織先生」です。そうです、学校の先生なのです!
いや〜、盲点だった。私、気づかなかった(笑)。りやさんから「どんな依織なんですか?」と聞
き出した時、「それがあったか!」と叫びました。ありがとうございます! りやさんの眼鏡教師 いおりんが素敵すぎて、もうすでに酸欠ですよ! どこの学校に行けば依織先生はいますか?
そして、なぜか普通に健全(笑)。あ、大丈夫です。私、熱とかありませんよ!(笑)
最初は、もう最後までイってしまおうと思っていたんですが、何だか書いてる途中からこの続き
の話を書きたくなってしまって。ですので、実はこの話は続編アリ、です。
「嫌い」から始まる物語(しかも依織で!)って新鮮でした。続編では甘々な話にしようと思いま
す。(続編も企画期間中にUPします) |