「何を考えているの?」
ソファで膝を抱えてぼんやりとしている優姫に、枢が声をかける。
学園を出て、二人でこの場所に落ち着いて以来、優姫はたまにこうしてぼんやりと考え事をし
ているようだった。
ハッと顔を上げた優姫はぎこちない笑みを浮かべる。
「いいえ、何も」
その答えに、枢はもう厭いてしまっていた。枢の問いに、優姫はいつも同じ答えを返すのだか
ら。
彼女の隣に移動すると、枢は優姫を抱き寄せる。優姫は黙って枢にされるがままになってい
た。
枢は知っていた。優姫が何を考えているのか。
――誰を想っているのか。
別れの時間を与えたのは枢自身。今後二度と"彼"に優姫を会わせるつもりなどなかったか
ら、最後の憐れみのようなものだったのに。
それが二人に忘れられないものを刻んでしまったのかと、枢は重くため息をついた。
「嘘つきだね、君は」
優姫を抱く腕に力を込める。彼女の長い髪を横に寄せて白い首筋を露わにすると、枢はそこ
に口吻けた。
「っ!」
ぴくん、と優姫の躯が震える。まだ牙は立てずに、枢は舌先で優姫の首筋を愛撫しながら囁い
た。
「零のことを考えていたのだろう? 僕の元に戻って来た君は、泣きそうな……いや、泣いた後
の顔をしていた」
枢はそのまま優姫の髪に顔を埋める。
「そんなに悲しかった? 零との別れは。……そんなにも君は、零を愛していたの?」
揺れる優姫の心を暴くように枢は言葉を重ねた。優姫はただ首を振ったが、それが彼女の精
一杯の嘘であることも枢は見抜いていた。
零を生かし、血を与え、そして彼女を貪ることすら許していたのは、すべて優姫を守るためだっ
た。
(それだけの存在に、彼女の心までを奪われるとは……ね)
自分の読みの甘さに枢は嘆息した。
優姫は、優しいから。
あんな風に堕ちる寸前の手負いの獣のような零が……優姫だけに縋り、求めたとしたら、彼女
がそれに応えずにいられるわけはなかったのに。
彼女の優しさは、時に枢にとっては残酷だった。
餓えるような渇望の中、枢自身どれほど優姫を貪りたい衝動に駆られたことか。それを律し続
けてきた枢の目の前で、零はいとも簡単にその垣根を越えてしまった。
だから、枢は零を憎んでいる。
同時に、憐れみと羨みも覚える。
憎しみだけで生きていけるほどの強さを枢は持たないから。今彼にあるのは、優姫を失いたく
ないという想いだけだ。それが諸刃の剣になることを枢は嫌というほど分かっていた。
「ねえ、優姫。僕がどれだけ君に餓えていたか、君は知っていた?」
優姫を振り向かせ、向かい合うように抱くと枢は言った。
「枢……さま?」
兄妹であり、許嫁であるという記憶も甦ったのに、相変わらず優姫は自分のことをそう呼ぶ。
共に過ごしていた日々よりも、離れて過ごしていた日々の方が長いのだから仕方ないのかもし れないけれど、枢は時にそれを寂しく感じる。
「覚えているかな、優姫は。黒主学園に夜間部が出来る直前のことだよ。君はこっそり月の寮
に忍び込んで来ただろう?」
その時のことを思い出し、優姫はこくりと頷いた。
あの時、枢は瑠佳の血を求めていた。
優姫にとって枢が吸血する瞬間を見たのはあの時が初めてであり、大きなショックを受けたの
を覚えている。
優姫を襲った"悪いヴァンパイア"ではないにしろ、枢は"ヴァンパイア"であり、自分とはかけ離
れた存在――。そのことを強く自覚させられた出来事だったから。
そう枢に告げると、枢は少し寂しげに微笑んで優姫の首筋を指先で触れた。
「違うよ、優姫。僕だって"悪いヴァンパイア"そのものだ。だってあの時僕は……君のここに、
牙を立てようとしていた。何も知らない君が無邪気に僕の名を呼び、触れる。餓えていた僕は もう限界だったから。何もかも滅茶苦茶にしてしまっても、君を貪ってしまおうと思っていた」
枢は儚い笑みを浮かべて優姫を見つめている。
優姫はすぐに彼の言葉に応えることが出来なかった。
「君が憎む"悪いヴァンパイア"の……最たるものだよ、僕は。これまでどれほどのものを貪っ
てきたか知れない。君のこともやがて、貪りつくしてしまうかもしれないんだ」
枢がきつく優姫を抱き締める。
「僕は、そういう化け物だから」
自嘲するように呟いた枢を、今度は優姫が抱き締めた。優姫には、枢が泣いているように見え
た。
決して、涙など流さない人だと知っていたのに。
「だったら、私も"悪いヴァンパイア"ですね」
困ったように微笑んだ優姫は、枢の頬に唇を寄せた。
「昔から、よくこうしておにいさまの精気を奪って来たでしょう? 今だって……私が欲しいと思う
のは、おにいさまの血だけだもの」
唇を徐々にずらし、優姫は枢がそうしたように彼の首筋に口吻けた。そして次の瞬間、鋭い牙
を枢の首筋に突きたてる。すぐに彼女が枢の血を啜る濡れた音が響き始めた。
「優姫……」
いつになく積極的な優姫に枢は驚く。しばらくすると、枢の血に濡れた唇のまま優姫が顔を上
げた。
「ね? だから、いいの。枢さまなら、私を全部食べちゃっても」
いつから優姫は、そんな表情で微笑うようになったのか。
学園にいた頃に見せていた無邪気な笑顔ではなく……どこか憂いを帯びた微笑み。
けれど、彼女は笑ってくれるから。
その心の在り処に不安を抱いても、こうして彼女は枢の傍にいてくれるから。
枢はこうして、何度でも優姫を抱き締めるだけだ。
「悪い子だね。そんなことを言うなんて」
彼女の唇に残る自らの血を拭い、枢もまた優姫の首筋に牙を立てる。枢が渇望し続けた彼女
の血が甘く薫って枢を酔わせた。
「本当に、僕には君しかいないんだ。この腕に抱いていたいのは……君だけだ」
縋るように枢が求めてくる。そんな枢の姿を見るのは初めてで、少し戸惑いながらも優姫は枢
を抱き締め続けた。
「私もです。私にも、枢おにいさましかいないから」
じゅくり、と血を啜って枢は切ない瞳を優姫に向ける。
「やっぱり君は嘘つきだ。
僕の優姫は、いつから僕に秘密を抱くようになってしまったのかな――」
それは枢の独り言だったのかもしれない。
優姫はその言葉が聞こえなかったフリをして、ゆっくりとソファに躯を倒していった。
◇
「零のことは、すべて君の中から追い出してあげる」
優姫の中に自身を深く沈めながら、枢が言った。
「彼が君に残した痕も、熱も。すべて僕が塗り替えてあげる」
互いの血を啜ることで欲情しきった躯はあっさりと交わりあう。罪深いほどに。
枢は、優姫が零に与え続けたものが『血』だけではないことを知っていた。
優しい優姫。
愚かな優姫。
すべてを与えることは、零に新たな渇望を覚えさせただけなのに。
その行為によって優姫自身も少しずつ零に心を溶かしていったことに枢は嫉妬していた。
だから、優姫の中から零の痕跡すべてを拭い去りたい。
零のことなどひとときも考えられないようにしてやりたい。
……それはあまりにも人間的な感情で、枢はふっと哂ってしまった。
「こうやって君の奥深くに入り込むのは、僕だけだよ」
枢は優姫の耳をくすぐりながら囁く。枢が抽挿を始めれば、切なく歪んだ優姫の躯が揺れ、優
姫は枢の腕を掴んだ。
「ねえ? こんなにいやらしく濡らすのも、熱くうねって離さないのも……僕にしか許さないでい
てくれるかな。優姫……君がもし僕を裏切ってしまったら」
ぬぷり、といったん枢は欲望を引き抜く。そして優姫をうつ伏せにさせ、ソファの背に縋らせる
と、後ろから再び彼女を貫いた。
「あぁっ!」
「僕は本当に、"化け物"になってしまうかもしれないから。僕だって、李土のことを哂えない。僕
から君を奪うものすべてを、壊しつくしてしまうだろう」
後ろから回された手が優姫の頬を撫でる。苦しいほどの圧迫感を与えられながら、優姫は頷
いた。
「離さないでいて」
呻くように彼女は言った。
「私を離さないでいてください。おにいさま」
躯だけじゃなく、心までも縛って。どこにも行かないように。
零に喰われた心が、彼を恋しがってどこかに行かないように。
「お願いだから――」
指先が白くなるほど、優姫は強くソファに縋り、爪を立てる。
枢は抽挿を速くしたかと思えば、わざとゆっくりの抜き挿しに変えたりもし、容易には優姫を登
りつめさせてくれなかった。
何度も彼女が達する寸前で動きを止め、甘い言葉や酷い言葉で優姫を煽り、そして再び激しく
欲望をぶつけていく。
それでも優姫は、枢に囁き続けた。
「離さないで」と。
それは優姫も、この二人きりの刻がそう長くは続かないだろうということを知っていたからかも
しれない。
どこかで枢と同じような喪失の不安を抱いていたからかもしれない。
「離さないで」
かすれた優姫の声が枢を誘う。
優姫の手に自分の手を重ね、強く握り締めて。
枢はそのまま短い叫びを上げた。
<END>
優姫と枢が学園を去った後。
LaLa4月号で枢の回想があったのでそのあたりの妄想もこめて。
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