右クリ無効
「陰影執事」一哉サンプル

「……どんな『練習』をしたんだかな」
 その痕を誰がつけたのか、一哉は知っている。そこから『彼』が一哉を哂っているようで、彼は途端に不快になった。
 そうして、ステップを重ね二人がフロアの中央に戻ってきたところで曲が終わる。一哉はなぜかそれから不機嫌になってしまい、むぎに対してもなおざりな返事しかしてくれなくなった。
 自分は何か失敗をしてしまったのだろうかとむぎが焦り、困惑しているうちに夜会はお開きとなる。同じ車に乗って帰る時も、一哉は一言も発しなかった。気まずいまま、車は御堂邸へと到着する。

「お帰りなさいませ。奥様、一哉さま」
 玄関では依織が二人を出迎えた。あくまでむぎを先に呼ぶところが彼が陰影執事たる所以であるが、それさえも今の一哉には忌々しく思える。
「奥様、お疲れになったでしょう? すぐにお召し替えを」
 一哉の傍を素通りして、依織はむぎの後ろに立ち、上着を脱がせる。そして彼女の手を取って、むぎを彼女の自室へと導いた。元から彼の眼中に一哉はないのだ。
「いかがでしたか、夜会は」
 胸元を飾っていた真珠の首飾りを外しながら依織は訊ねた。
「あ、うん。楽しかったよ? 依織に教えてもらったとおり、ダンスもちゃんと出来たし。
でも……」
 そこまで言って、むぎは言葉を切った。口ごもった主の様子に、何かあったことを依織は敏感に察知する。
「何かございましたか」
 むぎの夜会服を脱がせようと、後ろで大きく結んでいたリボンに手をかけながら訊いたその時。唐突に寝室のドアが開いた。
「きゃあっ!」
 はらり、と胸を覆っていた布が落ちて行くのを押さえてむぎが声を上げてうずくまる。依織は咄嗟にむぎを庇ってその侵入者の前に立ちはだかった。
「一哉様。ご覧のとおり、奥様は今お召し替えの最中です。
ノックもなしにお入りになるとは……」
 止めようとする依織をものともせず、『侵入者』である一哉はむぎの傍まで歩み寄り、彼女を抱き上げた。
「松川。むぎのダンスは見事だったぜ? おまえが自負するだけはある」
 長い夜会服を脱がされかけたまま、一哉に抱き上げられているむぎを気にかけながらも、依織は慇懃に礼をした。
「お褒めにあずかり光栄です」
「だが、余計なことまで教えろとは言っていないはずだが? これ見よがしに痕まで残しやがって」
 そこで依織は、一哉が何に対して憤っているか気付いた。依織が昼間、むぎの首筋に残しておいた痕を一哉は見つけてしまったのだ。
「いいか? おまえは確かにむぎの『陰影執事』かもしれないが、むぎの『夫』は俺だ。そしてむぎは俺のものだ。こいつに痕をつけていいのは俺だけなんだよ」
 傲然と言い放つと、一哉はむぎを寝室のベッドの上に放り出した。大切な『主』がそのようにぞんざいに扱われることに依織は眉を顰め、つかつかとむぎに近づこうとしたが、今度は逆にそれを一哉に阻まれた。

「むぎに触れるな」
 一哉は、胸元を飾っていたタイを乱暴に引きちぎって床に投げ捨てる。
「……私に命令出来るのは、むぎお嬢さまだけです」
 なおも構わずむぎに近づこうとする依織を制するように、一哉はむぎの唇を乱暴に奪う。
「むぎ? おまえの『夫』は誰だ?」
 ベッドに押さえつけられたむぎは、怯えながら答える。
「一哉くん、です」
「だったら、おまえの執事に命じろ。今夜はそこで、俺たちが愛し合うのを目をそらさず最後まで見ていろとな」
 むぎは思わず息を呑んだ。これまで依織とは、片時も離れずに生活してきたが、さすがに一哉に嫁ぎ、『夫婦の時間』を過ごす間は依織は絶対にそこに立ち入れなかったからだ。
「一哉くんっ! それは、イヤ……」
 依織はむぎのすべてを知っている。むぎ自身が知らないことまで。けれどなぜか、一哉に抱かれているところを依織に見られるのは嫌だと思った。それだけは、見られたくなかった。
「――むぎ」
 低く、冷たい声で一哉がむぎを呼ぶ。それは、むぎが初めて聴く一哉の声音だった。彼女はびくっと躯を震わせる。
「俺の言うことが、聞けないのか?」
 肩を押さえる力が強くなる。むぎは唇を噛んで、首を振った。嫁いだからには、誰に従わなければならないか、それくらいむぎにも分かっている。むぎは仕方なく、依織に命じた。

「依織。そこに、いなさい。目をそらさずに見ていなさい」

 依織は、煮えたぎるような憤りを堪えて一礼した。『主』であるむぎの命令は、絶対。逆らうことは許されない。
「……奥様の、仰せのとおりに」
 屈辱の中、依織は拳を握り締めた。今夜は手袋を外すことは出来ない。執事として、彼は大切な宝物がその夫によって奪われるのを見ていなければならない。それは彼にとっては至上の拷問にも等しい。

 三人の誰にとっても長い夜が、始まろうとしていた。


<続きは『陰影執事』本編でどうぞ。依織部分が気になる方はコチラ


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