
「fleur de nuit」
A5/32P/コピー誌/300円
2008年9月28日発行
枢×優姫/暁×瑠佳の短編をそれぞれ書き下ろし。
【枢×優姫「夜ニ咲ク花」より】
優姫はまだ戸惑いながら、隣に座る枢の横顔をちらちらと盗み見ていた。
「どうしたの、優姫。僕の顔に何かついている?」
音もなく進む車の中。優姫は慌てて手を振った。
「えっと、別にそういうわけじゃないですけど……。あの、やっぱり私も行かなくちゃいけない……んですよ、ね?」
不安そうに訊いた優姫の髪を撫でて、枢はおかしそうに笑った。
「ここまで来て何を言っているの? もしかして今から君一人だけ戻るつもり? 僕だけを残して」
髪を撫でていた枢の指が、優姫の頬にかかる。優姫は枢とどう視線を絡めていいのか分からずに当惑してしまう。
「心配しなくてもいいよ。今日行くのは比較的若いヴァンパイアたちだけの集まりだから。怖い大人のヴァンパイアは参加しない。それに今夜は、君のお披露目も兼ねているんだし……主役の君がいなくては始まらないよ」
それが一番の問題だ、と優姫はため息をついた。
優姫がヴァンパイアとしての記憶を取り戻してからしばらく経ったある日。枢は優姫を呼んで言った。
『一緒に夜会に出かけよう。君を玖蘭の姫として……僕の妹として、正式にお披露目するから』
突然の言葉に優姫は焦り、無理だと何度も言ったのだが、枢は優しく微笑んだまま、それでも優姫の拒絶を許してはくれなかった。こう見えて、枢が意外に頑固だということを優姫はよく知っている。
「別に私は、お披露目なんて……しなくていいです」
出来れば誰にも知られずにいたかった、と優姫は心の中で付け加える。
ヴァンパイアとしての目醒めを果たしたことで、色々なものが変わってしまった。自分も、自分の周りも。知りたくてたまらなかった記憶を手に入れたのと同時に、失ったものもまた多い。
手のひらから砂のように零れてゆくものが哀しいから。優姫はこれ以上変わりたくないと思った。
「何が怖い?」
小さくため息をついた枢は優姫を抱き寄せる。見上げれば、切なげに揺れる瞳に優姫が映っていた。
「怖いなんて……」
「僕がここにいるのに。優姫の傍に。君から離れないと誓ったことを、君は疑っているのかな」
優姫は黙って首を振る。今となっては、こうして信じられるのも、頼れるのも枢だけだ。
優姫の許婚。
たった一人の『おにいさま』。
ためらいがちにその肩に頭を預けた優姫に、囁くように枢は言った。
「君はただ微笑んでいてくれればそれでいい。僕が君のためにならないことをしたことが、今までにあった?」
小さく首を振った優姫の額に口吻け、枢は窓の外に視線を投げた。
「もうすぐ着くよ。ほら……今夜の月は、綺麗な三日月だ」
猫の爪のように細い三日月は、どこか自分を哂っているように優姫には見えた。
【暁×瑠佳「夜ニ哭ク花」より】
瑠佳がテラスから空を見上げた時、もう猫の爪のような月は中天に架かっていた。その月に哂われてでもいるようで、瑠佳はぎゅっと自分の手を握り締める。
『欲しいものがちゃんと手に入るのに、変に遠慮して躊躇って手を伸ばさないでいる人なんて、嫌い』
どうして優姫にあんなことを言ってしまったのだろう。これまで優姫には直接話し掛けることなんてしなかったのに。
彼女が『人間』であった時から、優姫は枢のただ一人の『特別』だった。そのことに何度胸を焼かれ、苦しい思いをしてきただろう。だが、瑠佳がどんな努力をしても、どんなに足掻いても優姫に成り代わることなど出来はしない。枢の瞳には、いつだって優姫しか映っていなかったのだから。
「贅沢なのよ、あの子は……」
一人きりのテラスで、瑠佳はため息とともに呟いた。
確かに更は純血の君。自分たちが崇め、尊ばねばならない存在。だが優姫は枢の中ではその更すら軽く凌駕した位置を占めているというのに。
「そのまま手を伸ばせばいいだけじゃない」
瑠佳には、たった一つの思い出しかない。
たった一度、枢に自分の血を求めてもらえた。それだけが瑠佳を支えるものだった。
「分かっては、いるのにね――」
瑠佳は夜空に手をかざす。細い月は掴めそうで掴めない。きっとこうして眺めているだけがいいのだろう。月も、枢も。
「何が分かっているって?」
その時、不意に瑠佳の後ろから声が聴こえた。
「……暁! 驚いた、いつからそこにいたのよ」
瑠佳の腰掛けるベンチの後ろに暁は立っていた。暁は密かに枢と優姫の護衛もしていたはずだった。
「枢様がもういいとおっしゃったからな」
そう言いながら暁は瑠佳の隣に無造作に腰を下ろす。
「あの子は?」
「あの子?」
首を傾げる暁に苛立ちながらも瑠佳は言い直した。
「優姫……『様』よ。一人にしておいていいの?」
枢がわざわざこの夜会に優姫を連れて来たのは、彼女が玖蘭家の姫であることを知らしめて、誰にも手を出させないようにするため。『純血の君』に害をなそうなどと思うヴァンパイアは一般的なヴァンパイアの中には皆無だ。当の『純血の君』たち本人を除いては。
「ああ、彼女は枢様と一緒だ。だから問題ない」
さらりと暁は言ったが、瑠佳はその事実を軽い衝撃として受け止める。
一緒にいるのだ、二人は。
この夜を共に過ごすのだろう――。
仲睦ましげな二人の姿を思い浮かべ、瑠佳はさらに強く自分の手を握り締める。軽い痛みが手のひらに走った。
「やめろ」
そんな瑠佳の肩を暁は抱き寄せ、その手を取った。
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