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「後悔している?」
露わになったあたしの肩に、彼の手が触れた。びくっと揺れるあたしの躯を愛おしむように、繊
細なその指先が何度も往復した。
そんな風に優しくされると、泣きたくなってしまうから。
あたしは顔を伏せたまま、何も答えられずにいた。
「ねえ、むぎ。俺は――」
言葉を紡ごうとする彼を、あたしは止めた。精一杯作った笑顔で。
「お酒の、せいですよね? 今夜はあたしも、先生も酔っていたし、それで」
その所為にでもしないと、あたしはこのままバカな夢を見てしまうから。
彼にまつわる『噂』はイヤというほど聞いていたのに。
彼が、あたしなんかに本気になるわけ、ないのに。
この一夜が特別なものになるなんて、ありえない。
「むぎ」
戸惑ったような声にはもう答えず、あたしはまだ彼の愛撫の名残のある躯をゆっくりと起こし
た。
「帰ります。明日も、早いですし。先生もでしょう?」
ああ、あたしは上手く笑えているのかな。
こんなのよくあることだって、大したことないって……そういうふうに、見せられている?
彼は、月明かりに照らされて切ない表情をあたしに向けた。
白衣を着ていない分、それが彼の真実に見えて――。
あたしは、慌てて彼から目をそらした。
◇
大きな音でナースコールが鳴り、どこの部屋からか確認したあたしは、内心「またか」と思いな
がらもナースステーションを飛び出した。
目的の部屋は、個室。
かと言って、重病人がいるわけでもないその部屋に、あたしは今日すでに3回目の足を運ぶの
だった。
「一宮さん! どうしました?」
ドアを開けて病室の中に入ると、ベッドの上で上半身を起こしたその『病人』は拗ねたような顔
であたしを見た。
「もう。僕のことは、『瀬伊』って呼んでって言ってるのに。むぎちゃんてば、まだわかってくれな
いわけ?」
一気に脱力しながら、あたしはベッドに近づく。
「今度はどうたんですか、一宮さん?」
点滴は外れていないし、痛みもないようだし……と素早く確認すると、彼はぷい、と横を向いて
言った。
「瀬・伊!」
「ああぁ……はいはい、瀬伊くん。これでいい?」
ワガママな患者さんは、仕方なさそうに頷く。
「本当は呼び捨てでもいいんだけど……まぁ、いいや」
にっこりと笑った彼は、有名なピアニストらしい。入院理由は、『過労』。
でもそれは表向きの理由で、トップシークレットだけれど、本当は『脇腹裂傷』……つまり刃物
による刺し傷で、彼はこの病院に運ばれ手術を受けた。あたしがついている先生である、松川 依織外科医に。
そしてあたしもそのまま、彼の担当ナースとなったんだけど……。とにかくこの患者さんはワガ
ママで気まぐれで、どういうことかあたしを気に入ってしまったらしく、しょっちゅうナースコール であたしを呼び出すのだった。
「それより。どうしてあたしの名前知ってるんですか?」
ネームプレートには『鈴原』としか書いていないはずなのに、いつの間にか瀬伊くんはあたしの
名前を呼んでいる。
「この前、婦長さんが来た時に訊いたら教えてくれたけど?」
ため息をつきそうになるのをあたしは必死に堪えた。
きっと、このエンジェルスマイルで婦長に微笑みかけたんだわ。彼は自分の容姿の使い方をよ
く知っている、とあたしは思う。ものすごく人気があるピアニストだと訊いたけど、それもこの笑 顔を見れば納得だ。
その彼が、どうして刃物で刺されて救急車で運ばれたのかは、まだ謎だった。『チジョーノモツ
レ』とか面白半分に噂しているナースもいたけど。
「で? 今回はどうしたんですか?」
あたしが訊ねると、瀬伊くんは言った。
「君の顔が見たかったから♪」
「……戻ります」
そのままUターンして病室を出ようとしたあたしを、彼が引き止める。
「ウソウソ。ねえ、喉渇いちゃった。リンゴとか擦り下ろしてくれない? 可愛い看護婦さん」
呆れたあたしは、ついにため息を禁じられなくなった。
「そういうのはナースの仕事ではありません。喉が渇いたなら、水差しにあるお水をどうぞ?」
「じゃあ、飲ませて」
あーん、と口を開ける瀬伊くん。本当に、このワガママ患者をどうしたらいいわけ?
その時だった。
「こらこら。うちの優秀なナースをあまり困らせないでくれないかな」
苦笑混じりの声が聴こえて振り向くと、いつの間にかそこに松川先生が立っていた。
「松川先生」
パッとあたしはベッドから離れ、先生の後ろにつく。回診の時間だった。
「傷の具合はどうだい? そろそろ抜糸も出来ると思うのだけれど?」
ベッドの横の椅子に腰掛けて、彼の傷を診ながら先生が訊ねると、瀬伊くんは面白くなさそうに
ふいっと首を振る。
「まだ痛い。当分動けなそう」
彼の傷は、そんなに深いものじゃなかったはずだ。傷口だって、もうだいぶ塞がりかけている
はずなのに。なぜか瀬伊くんは、松川先生に対しては敵意を剥き出しの反応を見せる。見てい るこっちがハラハラしてしまうほど。
「そう? それは困ったね。鈴原さんを口説く元気はありそうなのだけれど?」
にこやかな笑みを浮かべて、松川先生が切り返す。瀬伊くんも負けずににっこりと笑った。
「ああ、もちろんそれは別だよ。ねえ、先生。いっそのこと、むぎちゃんをこの部屋専属のナー
スにしてくれない? そうしたら僕、すぐに治っちゃうような気がするんだけどな」
二人の笑顔と笑顔がぶつかり合う音が聴こえた気がして、あたしは背中がひやりとするのを感
じていた。この二人、絶対目が笑ってない。
「却下だよ。彼女は優秀なナースだから、君一人にかかりきりというのも困るからね。あまり頻
繁にナースコールをするのもやめなさい。迷惑だよ」
松川先生は立ち上がり、厳しい口調で答える。瀬伊くんは再び面白くなさそうにベッドに潜り込
んでしまった。
「行くよ、鈴原さん」
先生に声をかけられたあたしはハッとして、点滴の状態を確認してから先生の後を追うように
病室を出る。 ![]()
「怠け病……だな、あれは」
廊下を歩きながら、先生は呟く。
「怠け病?」
訊き返したあたしに、先生が肩をすくめた。
「彼は、今ちょうど波に乗っているピアニストなんだよ。海外公演はもちろん、日本でも大きなリ
サイタルを幾つも開いている。あの容姿だ、女性ファンも多い……。だが、そういうものに突然 嫌気が差してしまったんだよ。彼は地位や名声には執着しないタイプだ。だから、すべて放り出 したくなってしまったのさ。傷はとっくに治っている。現実に戻りたくないだけだ」
いつになく鋭い口調にあたしは驚きながらも、つい反論してしまった。
「でも! そういうプレッシャーとか……ツラいのかもしれないですよ。何も、怠けたくて入院して
いるわけじゃ……」
すると松川先生はその場で足を止める。
「君は、優しいね」
その声には皮肉な響きが込められていた。
「まさに、白衣の天使というわけだ。けれど、患者を甘やかすのがいいナースなのではないと俺
は思うけれど? それとも、彼に特別な感情でも抱いているのかな」
松川先生の瞳が、あたしを射る。それはあの夜を思い出させ、あたしは咄嗟に目をそらした。
「別に、甘やかしているわけじゃありません! 特別な感情なんて、何も」
あたしは、誰かに特別な感情を抱いたりしない。
松川先生に対しても、それは……同じなんだから。
睨むようにしたあたしに、松川先生はふっと笑った。
「それならいいのだけれど。まぁ……患者とナースとの恋物語というのも、よく聞く話だしね?」
それなら、医者とナースの恋物語も?
それから、医者がその病院長の娘と結ばれるというのもよくある話ですよね、先生?
彼にまつわる『噂』をあたしは思いだす。
彼の下につくナースは、すべて彼の『お手つき』だとか。
彼が院長の娘に気に入られて、婚約間近だとか。
だからあたしは、あの夜のことを特別に思ったりしない。
先生を好きだなんて、思ったり……しないんだから。
「とにかく、一宮くんを甘やかし過ぎないこと。たまにはリハビリ代わりに少し歩かせてもいいか
ら」
松川先生の言葉に頷いて、あたしは先生と別れてナースステーションに戻った。
あたしが担当する患者さんは、まだ他にもたくさんいる。やるべき仕事が山積みだった。
あたしの背中を追うような先生の視線を振り切り、あたしは仕事に没頭した。
◇
「鈴原!」
名前を呼ばれて振り返ると、白衣を着た人があたしに向かって手を振っている。
「皇先生」
廊下を歩いて来たのは、麻酔科の松川皇先生だった。実はあまり知られていないけれど、松
川依織先生の実の弟さんで。手術の時に担当する患者さんが同じだったりすることが何回か あるから、あたしも皇先生のことはよく知っていた。
「今度のクランケのカルテ、さっき依織に渡し忘れちゃってさ」
彼が持ってきた封筒を預かると、皇先生は声を潜めてあたしに囁いた。
「なあ、今ちょっといいか? 訊きたいことがあって」
ちょうど手が空いたところだったから、あたしは頷いて、一緒に中庭へと降りた。
「訊きたいことって何ですか、皇先生?」
ベンチに座って訊ねると、訊きたいことがあると言ったのは彼の方なのに、なぜか皇先生は言
いにくそうにしながら口を開いた。
「うん……。あのさ、最近依織、機嫌悪くないか?」
あたしは苦笑しながら頷く。あの後も松川先生と瀬伊くんはとことん気が合わないらしく、回診
のたびにちょっとした衝突があるのだった。それで、きっと先生も機嫌が悪いんだと思うけど。
「瀬伊くん……あ、516号室の一宮さんの件だと思います」
あたしが答えると、皇先生も大きく頷いた。彼の手術の時には、皇先生も麻酔を担当していた
から、印象に強く残っているらしい。
「確かに依織とは相性が悪そうだけど……。でも、それだけか?」
何かを探るようにじっと見られて、あたしは動揺してしまう。
『それだけか』って……。他に、松川先生の機嫌が悪くなるようなことに、あたしは思い当たらな
いんだけど。
「実は、依織も昔刃物で刺されて入院したことがあるんだよ」
唐突に話し始めた皇先生の、その内容にあたしは驚いた。
「えっ……?」
「あいつ、荒れてた時期があって……ちょっと、女関係も派手でさ。それで」
言いにくそうにしている皇先生の話を察するところによると、どうやら女性に刺されたらしいこと
が分かる。
「多分一宮に対して苛立っているのは、昔の自分に重なるからだと思うんだけど。それと、あと
一つ」
そこで言葉を切って、皇先生はあたしを見た。
「皇先生?」
「あんたが依織の下につき始めた時、珍しく依織……機嫌よかったんだ。俺を飲みに行こうな
んて誘ったくらいで。今までだって、色んなナースがあいつの下についてたけど、一度だってそ んなことなかった」
口ごもった彼は、両手の指を組み合わせる。
「あいつに関しては、色んな噂があること、俺も知ってるよ。でも、多分どれも本当じゃない。あ
いつ、案外そういうのって言われるまま否定もせずに放置するタイプだしさ」
皇先生は困ったように笑った。
「皇先生、どうしてそれ、あたしに?」
あたしは、思わずそう問い返す。
「だから……あんたが来て、依織が変わったから。あんたにだけは、本当の依織を見て欲しい
って思ったのかな。余計なお節介かもしれないけど」
こんなこと、俺が言ったって依織にバレたら怒られるな……と、皇先生は言ってベンチから立ち
上がる。
「ま、依織のイライラが募るとこっちにまでとばっちりがくるからさ。それだけ」
照れ隠しのようにそう言うと、皇先生は病院の中へと戻って行く。あたしは小さな息をついて、
空を見上げた。
抜けるほど青い秋の空は、いつの間にか高くなっていた。
◇
それからしばらく経った日の夜。
あたしは夜勤で、ナースステーションに詰めていた。受け持ちの患者さんの様子や気付いたこ
とをまとめていた時、唐突にナースコールが鳴る。
コールは、516号室……瀬伊くんの部屋からだった。こんな夜中にコールすることは彼でも珍し
かったから、あたしは慌てて立ち上がって516号室へと向かった。
「瀬伊くん!? どうしたの?」
電気が消え、暗いままの病室に駆けつけ、ベッドに近づく。もしかして傷口が開いたりしたんだ
ろうか。それで苦しんでいるんじゃ……と瀬伊くんの様子を見ようとシーツに手をかけた瞬間。 中から伸びた手が、あたしの腕を掴み、すごい力でベッドにあたしを引き倒す。
「っ……きゃ……!」
大きな声を出すわけにもいかないと咄嗟に判断したあたしは、それでも小さな悲鳴を洩らしてし
まった。何がなんだか分からず、気がつくとあたしに覆いかぶさる形で、瀬伊くんがあたしを見 つめている。
「瀬伊……くん?」
信じられない思いで、あたしは彼を仰いだ。すると、暗闇の中、彼の表情が僅かに歪んだよう
に見えた、その時。
「ふっ……!?」
唇が、塞がれる。
瀬伊くんにキスされているんだと気付いたのは、そのすぐ後。逃げようともがいたけれど、華奢
に見えた瀬伊くんの力は意外にも強く、びくともしない。彼が怪我をしているんだという事実が、 あたしにブレーキをかけたということもあるけれど。
「や……やめ……っ……!」
首を左右に振って、そのキスから逃げようとしたあたしを、彼の唇が執拗に追いかけてくる。決
して逃がさないと、言っているようだった。
「ねえ、むぎちゃん? 僕、もうずっとベッドで寝ているのに、飽きちゃった」
いっそ無邪気にも見える表情で、瀬伊くんが微笑む。
「むぎちゃん、ナースでしょ? こういう時、患者さんを『慰めて』くれるのもナースの役目だよ
ね?」
瀬伊くんの手が、あたしの腿に触れる。びくっと躯を揺らしたあたしの反応を愉しげに見下ろし
ながら、瀬伊くんはそのまま手を上へと這わせ始めた。
「何言っ……! やめて、お願い瀬伊くん!」
「や・め・な・い。 ねえ……むぎちゃんは、あの先生のコト、好きなの?」
その笑みを黒いものに変えて瀬伊くんはあたしを睨むようにした。
「見ててイラつくんだよね。彼は君を目で追っているのに、君はその視線から必死に逃げようと
している。あれじゃあ、自分も好きですって白状しているようなものだよ?」
くすくすと瀬伊くんは笑った。
「彼に君が気持ちを返さないなら、君を僕にちょうだい。僕だって欲しいよ……誰より一番に、
僕を見ていてくれる人が」
不意に、真摯な眼差しを瀬伊くんはあたしに向ける。
「僕、もう疲れちゃったんだ。僕の周りで勝手に騒ぐ人たちや、僕に群がってくる女の子たち…
…。あんなに好きだったピアノも、今では弾くことが苦痛なんだよ」
その眼差しが、不意に歪んだ。
泣き出しそうなそれに……変わる。
「僕のこの傷、女の子に刺されたんだよ。もう会わないって言ったら、逆上したみたいで。だけ
ど、刺された瞬間はラッキーだとさえ思ったな。これで逃げられる……何もかもから、って」
スカートの中に、瀬伊くんの指が入ってきていた。あたしはそれを引き剥がそうとするけれど、
瀬伊くんの指はあたしの腿にぴったりと張り付いていて離れない。
「瀬伊くん! どうしてそんなこと言うの? そんなの……淋しいよ」
もがきながら、あたしは小さく叫ぶ。でも、瀬伊くんは首を振った。
「ずっと、淋しいよ? だから君に、傍にいて欲しいんだ」
瀬伊くんが、再びあたしの唇を塞ごうとする。抵抗しようとしたあたしは、不意にパッと部屋の電
気が点くのを見た。
「いい加減にしなさい」
静かな怒りを抑えた声が部屋に響く。
「松川先生……!」
ふっと瀬伊くんの力が緩む。松川先生は瀬伊くんの肩に手をかけ、あたしから引き離した。あ
たしは慌てて、瀬伊くんに乱されたナース服を押さえながらベッドを下りる。
「何もかもから逃げられる? そんなのは君の錯覚だよ。君が君の責任を果たさないうちは、
何からも逃げられない」
あたしの腕を痛いほどに掴んで傍に引き寄せると、松川先生は瀬伊くんに向かって言った。
それは……まるで、自分自身にも言い聞かせているようだと。皇先生の話を聞いてしまったあ
たしにはそう聴こえる。
「君のその傷は、他人を傷つけたことの代償だよ。君はこれからも、幾つも傷を増やしていくつ
もりかい?」
それは凛とした声だった。
きっと、松川先生も……。幾つも傷を作ってきたんだろう。
そしてもしかしたらそのうちの一つは……あたしが作ったものかもしれなくて。
あたしはそっと、先生の背中に顔を埋める。
「君の身勝手な逃げの道連れに、彼女を巻き込まないでくれ。君の体の傷を医者は治せても、
心の傷を治すのは君自身だよ」
力なくベッドに腰を下ろした瀬伊くんにそう言うと、松川先生はあたしの手を引いて病室を出よ
うとした。
「瀬伊くん!」
病室を出る前に。
あたしは、瀬伊くんに呼びかけた。
「退院したら、あたしケーキ焼くから! お祝いに、ケーキ焼くから……! 早く、傷ちゃんと治
そう? ね?」
瀬伊くんから、返事はなかった。
だけど、かすかに揺れた肩がその返事のような気がして……。
「また、明日ね」
そう声をかけ、あたしは病室を後にした。
松川先生は、無言であたしの手を掴んだまま夜の病院を早足で歩いて行く。
あたしはそれについていくのが精一杯で……。やがて、先生は自分が使っている仮眠室のドア
を開けるとあたしをその中に入れた。
「君は、何を考えているのかな」
あたしの手を離した松川先生は、腕を組んであたしを睨む。
「何って……」
「こんな夜中に、彼の病室にのこのこと行ったことさ」
不機嫌そうに彼は言った。
「でも、突然容態が急変することも……」
「彼の怪我は、ほぼ完治に近い。ありえないだろう!?」
声を荒げた松川先生は、次の瞬間ハッとしたような表情になって、自分の髪をかき上げた。
「……すまない。『ありえない』だなんて言いきれなかったね。医者として恥ずかしいことを言っ
てしまった。医者は、患者のことをまず第一に考えるべきなのに……」
自嘲気味に、彼は哂う。
「ただの嫉妬だ。彼が患者でなければ、君を組み敷いているのを見た瞬間に殴り倒していた」
激情が迸る声で、彼は呻くように呟く。そうして、あたしを見つめた。まっすぐに。
「分かっている。君はあの夜のことをなかったことにしたいんだろう? 俺に抱かれたのは、間
違いだったと……そうしたいのだろう?」
彼は、簡易ベッドに腰を下ろす。そして小さな息を吐いた。
「君は信じてくれないかもしれないけれど。俺は、本当に君のことが好きだよ。誰にでも言うわ
けじゃない。本当に、俺は」
そこで言葉を切って、松川先生はあたしの手を掴む。
「君が、好きなんだ。ああ……。淋しいと、そう言いたいのは俺の方だったかもしれない」
松川先生は、傷付いた少年のような瞳をあたしに向けた。
それは、あの夜あたしが見ようとしなかった先生の瞳と、同じものなのかもしれない。
『あんたにだけは、本当の依織を見て欲しいって思ったのかな』
青空の下で、皇先生が言った言葉が甦る。
あたしは、松川先生の何を今まで見てきたんだろう。
「松川先生」
あたしは、先生の手を握り返した。互いの視線がぶつかり合う。
「あたし、嘘つきました。お酒のせいだなんて、思いたくなかったんです。本当は、すごく嬉しくて
……。でも、怖くて」
震える指を、先生の手のぬくもりが包む。そのまま先生に縋りつきたい衝動を、あたしはまだ
堪えていた。
「怖い?」
先生の問いかけに、あたしは頷く。
「夢……みちゃ、ダメだと思ったの。大事なものを作るのって、怖いんです。いつかそれが無く
なってしまうかもって考えたら……傷付くのが、怖いから」
あたしもきっと、瀬伊くんと同じ。
自分が傷付くのが怖くて、松川先生を傷つけた。
そっと、先生の腕があたしを包み込む。抱き寄せられて、あたしは先生の膝に座った。
「俺も、怖いよ。だけど、一人でいることはもっと怖い。やっと君に出逢えたんだ。俺には君しか
いないと思えたから……君の全部が、欲しかった」
先生の手が、あたしの髪をゆっくりと撫でてゆく。あたしを癒すようなそのぬくもりに、あたしは
泣きそうになる。
「むぎ」
甘い囁きが、あたしを呼ぶ。
「俺の傷は、君にしか癒せないよ。どんな名医にも、無理だ」
彼の手が、あたしの頬を包んだ。
「優しい、看護婦さん。俺を癒してくれますか?」
あたしは微笑んでそっと目を閉じる。柔らかなぬくもりがあたしの唇を奪って行くのを感じなが
ら。
◇
暗闇で絡み合うのは、互いの吐息と小さな喘ぎ。そして、いやおうなく耳に響かされる、ぐちゅぐ
ちゅという淫らな水音。
「や、あぁ……」
松川先生の肩に手をついて、あたしは立ったまま足を開かされている。その足の奥には先生
の指が入り込み、溢れた蜜を掻き出すように動いていた。
「もう、立ってられな……」
あたしが唇を噛むと、松川先生は空いている手であたしの頬を撫でた。
「駄目だよ。もう少し我慢しなさい。ほら……もっと溢れさせてあげるから」
あたしも先生も、白いナース服と白衣を着たままだ。病院の中でこんなことをしているという背
徳感がよりいっそうあたしたちを高めてしまう。
「ひあっ!」
あたしは鋭い悲鳴を上げた。
中に挿れた中指であたしの敏感な部分を強く擦りながら、松川先生の親指はあたしの花芯を
捉えている。親指の先をそこに押し付けるように、ぐりぐりと指を動かしたのだ。
「ココも、こんなに硬くして。いけないナースだね、君は。足にもトロトロと伝っていっているよ?
そんなにいいのかい?」
意地悪く先生が訊く。堪え切れず、先生の首に腕を回して腰を後ろに引かせてしまうけれど、
先生の指はどこまでも追いかけて来た。
「あの夜から、どことなく俺を避けているような君を見て、どれだけ焦れていたか。酷い人だね、
君は……あんな甘い記憶を俺に残して、身を翻してしまったのだから」
先生は、あたしの耳元で恨み言を囁く。指をいっそう激しく動かしながら。
「君は、少しも思いだしはしなかった? 酒のせいだと……すっかりこの躯から、俺の痕を消し
てしまったのかな」
あたしに思いださせるように、指は動く。
そして。
「きゃっ!」
不意に、胸に冷たい感触が当たってあたしは躯を揺らした。
いつの間に取り出したのか、先生が聴診器をあたしの胸に当てている。
「俺は外科医だからね……普段はあまり使わないのだけれど。こういう時には役に立つな」
冷たい聴診器が、あたしの胸の先を捉えている。押し付けるように先生はその聴診器を動かし
た。
「やん、あっ……」
「フフ。君が感じている音がよく聴こえるよ。可愛い実を紅く尖らせているのも分かる」
あたしの羞恥心を煽るように言って、より激しく中に入った指を動かした先生は、あたしを一度
そのまま高みに押し上げるとゆっくりと指を引き抜いた。
「ご覧? こんなに俺を濡らしてしまったよ? 鼓動も速くなり過ぎて……君がどれだけいやらし
いか、俺に教えてくれている」
先生はあたしに見せつけるように、その指を舐めていく。堪らなく恥ずかしくて、目をそらそうと
するあたしに先生は命じた。
「君はもう、一人でイってしまったのだろう? 俺を置き去りにして?」
意地悪な口調。そうさせたのは先生なのに……という反論は言葉にならず、あたしは先生に抱
き寄せられる。
「だけど、まだ足りない……。そうだね?」
患者の様子を話すように、先生はあたしに囁いた。
「だったら、どうすればいいのかな、君は」
先生のパンツのベルトを、あたしは外す。そして、ゆっくりと勃ち上がったそれに、指を触れた。
「ああ……君に触れられただけで、どうにかなりそうだ」
吐息混じりの言葉に、あたしの躯が震える。
「自分で挿れてみなさい。出来るだろう?」
あたしは、先生の膝を跨ぐようにしてベッドに膝をついた。
先生に散々乱されて溢れた泉に、先生の先端が触れている。そのままあたしが腰を落とせ
ば、先生の剛直があたしを貫くだろう。
けれど、それでもまだためらってしまうあたしに、彼はさらに言葉を注ぎ込む。
「そうやって、まだ焦らすのかい? 哀れな君の下僕は、君の中に入りたくて仕方がないという
のに?」
唆すように、言って。そして、僅かに腰を突き上げてみせる。先端がぬるりとあたしの中をうか
がって、また離れていく。
焦らしているのは、先生の方だ。
「おいで……ねえ、俺のお姫さま?」
その言葉で、あたしは目を閉じながらゆっくりと腰を先生に沈めていく。熱い楔が下からあたし
の中に穿たれていくのを小さな吐息とともに受け入れた。
「あはぁんっ……せんせい……!」
ぬぷり、と先生の熱があたしの中に入り、満たす。奥まで突き上げられて、あたしは息も出来
ないほどに喉をそらした。
「いい子だ。上手だよ、むぎ」
先生も熱い吐息をあたしの首筋に落とすと、あたしの腰を掴んで上下させる。そのたびに先生
の剛直に内部の敏感な場所を擦り上げられて、あたしはいやらしい啼き声をあげてしまうのだ った。
「俺の白衣も、君から溢れた蜜が濡らしていくよ……?」
そう言われて視線を下に向けると、あたしから零れた雫が、確かに先生の白衣に淫らな染み
を作っていた。慌てて躯を離そうとするあたしを、先生は強い力で抱き止める。
「いいんだ、このままで……。フフ、この白衣のまま、一宮くんの回診に行こうか、明日。彼はき
っと、気付くよ」
確信に満ちた声で言われて、あたしは大きく首を振る。
「やめてくださいっ! もう……いやぁ……」
あたしは、恥ずかしくて仕方がないって言うのに。
けれど先生は、そんなあたしを愛しそうに抱き締めて。
「いや、じゃないだろう? 今日は仮眠なんて出来ないな……このまま朝まで、可愛い看護婦さ
んと淫らに繋がっていたいよ」
ずん、と深く突き上げて。
不埒なドクターは、片目をつぶって見せたのだった。
◇
「ああ、鈴原」
あたしはまたしても皇先生に呼び止められて、廊下で足を止める。
「一宮さん、退院だって? よかったな」
あたしは微笑んで頷いた。あの後、瀬伊くんは大人しく療養に励み、無事明日退院ということに
なった。
また、ピアノも弾こうかな……と呟いたのを聞いて、あたしは嬉しかったんだけど。今度、チケッ
トをくれるというから、瀬伊くんのコンサートに行きたいって思った。
「ところで……。依織、今日はまた機嫌悪いんだけど。最近ものすごく機嫌よかったのに、どう
したんだよ」
今日、この後手術の打ち合わせなのにさ……とぼやく皇先生に、あたしは困ったように微笑む
しかない。
不機嫌の理由は、あたしが瀬伊くんにケーキを焼いたから。
本当に子供みたいな理由であの人は拗ねるんだから。もう、ため息をつくしかないよ。
だけど、天才外科医を上機嫌にさせる方法も、あたしは知っているんだ。
「大丈夫。午後までに、その機嫌治しておくから」
あたしは皇先生に約束して、そこで別れた。
今日はキス一つで、機嫌を治してくれるかしら?
不機嫌なあたしのドクターの機嫌を治すために、きゅっと踵を鳴らして、あたしは彼のいる診察
室へと急いだ。
<END>
「依織図鑑」第4弾は、ドクター依織です! 白衣! はっくっい! この企画をやると決めた時 に、一番最初に浮かんだのが白衣依織でした……煩悩のまま生きている緋織です。後悔はし ていない。
ワガママ患者役のゲストは瀬伊です。ていうか瀬伊しか出来ない、この役(笑)。
あと、ライバルの医者で一哉……とも考えたのですが、この前ホストに出演していたので今回
はお休みです。
今回は、白衣の名手(笑)、ノゾミさんにイラストをいただきました! まさに理想の外科医がこ
こに! 聴診器まで描いていただいたので、思わず聴診器プレイもさせてしまったじゃないです か! 後悔はしていない!(笑) あと、思わず皇先生(麻酔科)を出したのはノゾミさんへのプ レゼントなのでした☆
ノゾミさん、本当にありがとうございました! この依織がいる病院に、私入院する。
医療関係には疎いので、作中何か粗相がありましたら申し訳ありません。大目に見てやってく
ださいませ。 |