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悔しいなぁ。
世界で一番大きらいだと思っていた人を、こんなに好きになっちゃったんだから。
◆
「んっ……ふ……」
こぽこぽとコーヒーが落ちる音に紛れて、吐息の洩れる音がする。
松川先生はあたしの頬を両手で包むようにキスを繰り返すから、耳を塞がれてしまったことで、
よりキスの音があたしの中に響く。それが恥ずかしくて逃げようとするけど、先生はそれを許し てはくれない。
「や……も、やぁ……」
手を突っ張って押しのけようとしても、先生はさらに強くあたしを抱き寄せて笑った。
「こら。逃げてはいけないよ」
眼鏡を外して、あたしを見つめる。
放課後。
外では運動部が部活をする声が聴こえてくるのに。
この部屋にだって、いつ誰が入ってくるか分からないのに。
先生はそんなこと、1ミリだって気にしている様子はなく、あたしにキスを繰り返した。
「僕にはこの時間が大切なんだ。君をこの腕の中に閉じ込めて、君が僕のものなのだと確認す
る時間が……ね」
そう言って、先生はあたしの頬を指先でつついた。
「まさか、授業中に君にキスするわけにはいかないだろう?」
満更冗談という調子でもない言葉に、あたしはさっと顔色を変える。
「あ、当たり前でしょ!? 何言っ……先生、ちゃんと『先生』だって自覚あります?」
ようやくその腕の呪縛から逃れて躯を起こすと、今度は先生に後ろから抱き締められた。
「もちろん? そうでなければ、どこでもかまわず君を抱き締めてキスしているよ」
本気で眩暈を感じて、あたしは溜め息をついた。
こんな不埒なことを言う教師は松川依織先生。
古文担当で、女子からものすごく人気のある先生が……あたしを、好きだって言ってくれたの
は一ヶ月前。最初は信じられなくて、からかわれているだけだと思っていたのに。
『僕だけの『若紫』になりなさい』
逃げたあたしを捕まえて、先生はそう言った。
そんなことを言われてしまったら、あたしはもうどこにも逃げられなくなって。
こうして、放課後先生に抱き締められてキスをする関係になっている。結局、あたしも先生のこ
とが好きだったんだって、認めちゃったから。
「でもやっぱり、光源氏が浮気モノだって考えは変わりませんからね」
先生の膝の上で、広げられていた『源氏物語』を指差してあたしは呟く。そもそも、古文の成績
が極端にひどかったあたしへの『補習』がこの関係の始まりでもあったんだけど。週に二回、松 川先生に一対一の贅沢な『補習』を受けながら、やっぱりあたしは源氏の君を好きにはなれな い。
「やれやれ。君も強情だね。まぁ……仕方ないかな。君くらいの年の女の子には、源氏の君は
ひどい浮気者に見えるだろうから」
苦笑しながら、先生はあたしの髪を撫でる。大きく頷いたあたしのうなじに口吻けるようにして、
先生は囁いた。
「……けれど、僕まで源氏の君のように浮気者だとは思わないだろうね? 僕には君しかいな
いんだということは、こうして毎日証明しているのだから」
先生は、髪を寄せてあたしの首の後ろにキスを落とす。思わず躯が震えて、あたしは先生を振
り返る。
「先生……っ!」
「フフ。やんちゃなお姫さまを抱き締めるだけで、僕の腕はいっぱいだからね」
そういうところが、信用出来ないんだから。
真っ赤になりながら、あたしは先生の胸に頭をもたせかけた。
本当は、少し……不安。
今まで松川先生が全然恋愛をしてこなかった、なんてわけなくて。
それこそ、源氏の君みたいに色々な女の人と付き合ってきたかもしれなくて……。
その中で、どうしてあたしなんだろう。年だって、全然違うのに。先生からしたら、あたしなんて
子供なのに。
いつか、あたしも飽きられるのかもしれない。
『源氏物語』にはそういう女の人だっていっぱい出てきたんだから。
「どうしたの? むぎ」
あたしの顔を覗き込んで、優しい瞳で先生が訊く。
「大好きだよ、僕のお姫さま」
あたしの顎をくすぐり、甘い言葉を囁いて、先生は上向かせたあたしの唇を塞いだ。
そのキスに応えて、あたしはそっと小さな不安を胸の奥へとしまう。
今、こうしてあたししか映っていない先生の瞳を信じたいと思いながら。
◆
「おう、むぎ!」
ある朝のこと。いつものように学校に行く途中で、あたしは後ろから麻生くんに声をかけられ
た。
「あ、麻生くん。おはよ」
「最近、一緒にならなかったな。おまえ、放課後も補習とかで残ってるしさ」
そう言われて、ドキッとしながらあたしは曖昧な笑みでごまかした。
「古文があまりにひどかったから、補習受けてるだけだよ。そういえば、麻生くんはそういうのな
いわけ? だって、得意なのって体育と物理だけでしょ、確か」
すると麻生くんはあたしの頭を小突いた。
「バカにしてんなよ。俺は、ギリギリでも赤点だけはとんねぇようにするのが信条なの」
「……それって、威張って言うことかなぁ」
「うるせぇ」
幼馴染みの麻生くんとは、いつもこんな風に軽口をたたきあう仲だ。年は一つ上だけど、お兄
ちゃんって感じでもないし……夏実たちとはまた違った意味で親友、みたいな感じ?
「そういやさ、知ってるか? 今日から新しい保健医来るらしいぜ?」
そういえば、今朝は朝礼があったっけ……と思い出す。
「保健の? あれ、今までの先生ってどうしたんだっけ?」
優しそうな女の先生だったけど……と言うと、麻生くんはさして興味もなさそうに答えた。
「産休とか聞いたけどな。まあ、どっちにしろ俺には関係ねぇな。保健室の世話になることなん
てないし」
あたしはくすっと笑った。
「そうだよねぇ。麻生くん、授業サボる時は堂々と裏庭の芝生の上で寝てるもんね?」
気分が悪いとか嘘をついて保健室に逃げることはない。その辺、潔いといえばいいんだけど…
…。
「どうでもいいだろ! それより、急がねぇと遅刻すんぞ。ったく、おまえと一緒に行く時は決まっ
てギリギリなんだよな」
そう言って走り出す麻生くんに合わせて、あたしも走り始めた。
「それはこっちのセリフ。麻生くんには負けないからね!」
そして、あたしたちはまるでかけっこでもするみたいに、学校へ向かって競って走ったのだっ
た。
麻生くんが言ったとおり、朝礼では産休を取った保健の先生の代わりに、新しい保健の先生が
紹介された。
「片桐雪音です」
白衣を着た小柄なその先生は、華奢で儚い印象を与える美人で。一瞬講堂がざわついたくら
い。
「ね。きっと今日から、保健室に行く男子増えるよ」
あたしの後ろから耳打ちしてきたのは、夏実。あたしは苦笑しながら頷き返した。
この後。
あたしがどんな感情を抱くようになるかなんて、知りもせずに。
◆
「あやにくなるみじかよにて、あさましうなかなかなり。
見てもまた あふ夜まれなる 夢のうちに やがて紛るる 我が身ともがな」
古文を読む松川先生の声が、虚ろに響く。今日の先生は、どこかおかしいと思った。上の空み
たいで、何か考え事でもしているような。
「ここは……源氏が、藤壺の宮との密かな逢瀬を持ったシーンだね。自分の義母にあたる藤
壺と関係を持ってしまった源氏が詠む歌だよ。『お会いしても、またいつ会えるか分からない。 いっそ夢のうちに紛れてしまいたい……』という意味かな」
そこまで言うと、先生はテキストを閉じてしまった。
「先生?」
あたしが顔を上げると、松川先生は髪をかきあげた。
「ごめん。今日はここまでにしようか。この後用事があるんだ。また、来週」
いつもの先生らしくなく、途中で講義をやめてしまった先生は立ち上がった。
「あ、はい……。先生、具合でも悪いんですか?」
顔色が悪く見えて訊ねると、先生は困ったような笑みを浮かべながら首を振る。
「いいや。そういうことではないのだけれど……。心配をかけてごめんね」
あたしの頭を軽く撫でると、先生はあたしをじっと見つめて……小さな溜め息をついた。
「下校時刻になる前にお帰り。気をつけてね」
今日は、あたしに一度もキスをせずに。
あたしは、そんな先生がいつもと違うと思いながらもそれ以上問い詰めることも出来ず、準備
室を出た。
先生、どうしたんだろう。
すごく……苦しそうで、切ない表情をしていた。あんな顔をした先生を見るのも初めてで、胸が
騒ぐ。やっぱり、どこか具合が悪かったんだろうか。
聞き出せなかったことを情けないと思いながらいつもより早く校舎の外に出ると、麻生くんとば
ったり行き会った。
「あれ? 麻生くん、どうしたの?」
麻生くんは特に部活とかやっているわけじゃないから、いつもだったらすぐに帰るはずなのに。
今から校舎に入って行こうとしている麻生くんに、あたしは首を傾げた。
「むぎ、ちょうどいいとこで会った。なあ、おまえ絆創膏とか持ってねぇ? さっきさ、クラスの奴
らとバスケしてたのはいいんだけど……ホラ、相手の爪が当たって、切っちまったみたいで」
麻生くんが自分の頬を指差す。確かにそこには、うっすらと血が滲んでいた。
「わ、血が出てるよ! ちょっと待って……えーと」
いつも、何枚か持っているはずなんだけど、その時に限って切らしていたみたい。
「ごめん、麻生くん。ないみたい……。ね、保健室行こうよ。そのままにしておいたらよくないよ」
あたしが言うと、麻生くんは笑って手を振った。
「ああ、じゃあいいって。そんなに大したことねぇし」
だけどあたしはガシッと麻生くんの腕を掴む。
「ダメだよ! そういう小さい怪我も放っておいたら大変なことになるかもしれないんだから!
ちょうどいいじゃない、消毒もしてもらおうよ。それにホラ……新しく来た保健の片桐先生とおし ゃべりできるかもよ?」
片桐先生は、たった数日で学園のマドンナと言われるくらいに人気が高い存在になっていた。
夏実が予想したとおり、大したことないのに保健室に入り浸る男子が続出で。
「べ、別に興味ねぇって! おい、むぎ!」
抵抗する麻生くんの腕を引っ張って、あたしは強引に保健室へと向かう。そのうちに抵抗して
いた麻生くんも大人しくなって、あたしの後をついて歩いて来た。
「保健室に縁なんてないって言ってたばかりなのにね」
あたしが言うと、麻生くんは溜め息をついた。
「だから、マジで大したことねぇって。舐めときゃ治るよ」
「……そこ、ほっぺただけど。どうやって舐めるわけ?」
あたしが鋭く指摘すると、麻生くんは「うっ……」と言って黙ってしまった。そういう単純なところ、
麻生くんの可愛いところだと思う。可愛いだなんて言ったら、また麻生くんは怒るんだろうけど。
「行くよ、麻生く……」
保健室の前に着いて。ドアをノックしかけた時だった。中から、話し声が聴こえる。
「あれ。誰かいるみたい」
中に入るのはマズいのかな? とあたしが躊躇っていると。
「依織……久しぶりね」
中から聴こえて来た声に、あたしはびくっと足を止めた。
「こんなところで再会するだなんて、思わなかった」
それは、片桐先生の声。
依織……? 依織って……松川先生の、こと?
「俺はこんな皮肉な再会を望んではいなかったけれどね、雪音」
呆然とするあたしの耳に飛び込んで来たのは、松川先生その人の声だった。松川先生も、『雪
音』って呼んだ。それは、まるで昔の恋人を呼ぶような声で。
「まだ、怒っているの? 確かに私は許されないことをしたわ。私には夫がいたのに、あなたと
……」
衝撃的な内容に、あたしも……そしてそこにいた麻生くんも立ち尽くす。ここから離れなくちゃい
けないと思うのに、足が動かなかった。
「君が俺を愛しているという言葉をすべて信じられるほどに、子供だったということさ。結局俺
は、間男でしかなかったけれど」
自嘲気味に呟く松川先生の声。
これ以上、聞いちゃいけない。
これ以上、知っちゃいけない。
それなのに――。あたしは、その言葉を聞いてしまった。
「君を忘れたことなどなかった。忘れたくても……ね」
苦さと切なさが混じった声音。それは、松川先生の本音なのだろう。
あたしは堪えられなくなって、踵を返した。
「むぎ! おま……ちょっと、待てよ!」
麻生くんが声を上げてあたしを呼んだから、中にいた二人にもあたしたちがそこにいたことが
分かってしまったんだろう。ドアが開いて、松川先生が飛び出して来る。
「むぎ……」
あたしの名前を呟く先生の声が聴こえたけど、あたしは耳を塞いだ。
なぁんだ。
やっぱり、先生は『源氏の君』だった。
『藤壺の宮』の代わりを求めて彷徨う……源氏の君。『若紫』だって、結局はあの人の代わりな
んじゃない。
あの、綺麗な人の。
松川先生が忘れられないひとの。
それは、前に先生が夏実を抱き締めたんじゃないかって思った時よりもショックだった。あんな
に優しい言葉や甘い言葉を降らせたのも、全部『代わり』だったんだって。あたし自身を見てい たんじゃないって知らされる方が……よっぽど、ショックだった。
「待てって、むぎ!」
夢中で走るあたしに追いつき、腕を掴んだのは麻生くんだった。
「麻生……くん」
二人とも、息を切らせていて。だけど麻生くんの顔を見たら、それまで堪えていた切なさが溢れ
出す。
「どうしたんだよ。おまえが泣くなんて」
麻生くんは戸惑いながら、あたしの頭を抱き寄せた。
「麻生、く……」
ぽろぽろと涙を零すあたしの頭を、ぎこちなく撫でる麻生くん。
「……おまえ、あいつが好きだったのか」
そう呟く麻生くんに、あたしは首を振った。
「キライ。キライだよ……大きらい!」
これじゃ、前と同じだ。そう思いながらも、あたしは「キライ……」と呟き続けた。
「俺にしとけ」
あたしが泣き止むまで、ずっとそうしていてくれた麻生くんは、不意にそんなことを言う。
「え……?」
「俺にしとけよ。俺なら、おまえをそんな風に泣かせたりしないからさ」
あたしの肩に手をかけ、麻生くんは真摯な眼差しであたしを見つめる。
「でも、あの」
混乱するあたしに麻生くんは苦笑して、背中をぽん、と叩く。
「まぁ、すぐにってわけにはいかないだろうからさ。とりあえず俺はいつだっておまえの傍にいる
から。な?」
その言葉に、あたしは小さく頷いて。
目に染みるような真っ赤な夕陽から、そっと目をそらした。
◆
あたしは再び、国語科の準備室には行かなくなった。
あの後何度も、松川先生はあたしに話しかけようとしていたけれど、あたしはそれをことごとく
無視した。前回のこともあるから、今回は授業をサボったりはしない。さすがに先生だって授業 中にあたしに話をするわけにもいかないだろうから、これは有効な手段だった。
そして、登下校はいつも麻生くんと一緒にした。麻生くんは、何も聞かずにあたしの傍にいてく
れて。今までと変わらない態度であたしに接してくれる。今のあたしには、それが一番嬉しかっ た。
松川先生と、片桐先生がどんな関係だったのか。
そして、今はどういう関係なのか。
気にならないと言えば嘘になるけど。
あたしは、これ以上傷つきたくなかったんだ。
知りたくなかった。あたしが、本当の意味での『若紫』だと。思い知らされるのが怖かった。
だからあたしは――逃げたんだ。
その日もあたしは、麻生くんと一緒に学校を出た。
いつもみたいに、他愛ないお喋りをして、途中のコンビニで買い食いなんかして。
『先生』なんか好きにならず、あたしのことだけを見ていてくれる人と一緒にいられるのが一番
いいのかもしれない。
その人の昔の恋愛を気にして、年の差を気にして不安になることもない。
どうでもいい話題で盛り上がって、笑い合って。
そうして過ごしていれば、いつか先生のことなんて思い出すこともなくなる。あたしはそんなこと
を考えるようになっていた。
「むぎ」
コンビニで買った肉まんに、あたしがかぶりついた時だった。
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、目の前に夕陽を背にして立つ松川先生がいた。
「ッ!!」
咄嗟に麻生くんの後ろに隠れようとしたあたしに近付き、松川先生は容赦ない力であたしの腕
を掴んだ。
「痛っ……! いや、離して! 何するんですか!」
睨みつけるあたしを、松川先生は平然とした表情で見つめ返す。
「おいで。話がある」
あたしは掴まれた腕を振る。
「あたしにはありません。離して……っ」
麻生くんがあたしたちを遮るように間に入って来る。
「おい、あんた……何やってんだよ? むぎを離せよ」
けれど、松川先生はそれにも動じずにあたしを抱き上げてしまった。
「っきゃ!」
「俺はこの子を、誰にも渡す気はないよ。修羅場を踏んだことのないお子様は引っ込んでいる
んだね」
麻生くんに向かってそう言い放つと、松川先生は近くに停めてあった車にあたしを押し込んだ。
「ちょっと! 降ろして……!」
「じゃじゃ馬姫、君も大人しくしていなさい」
強引にドアを閉めて、運転席に乗り込むと、先生は乱暴にアクセルを踏み出した。
焦る麻生くんの顔が、どんどんと遠くなる。車は加速していて、飛び降りることも出来ない。あた
しは助手席から先生を睨みつけた。
「どういうつもりですか。こんなの、誘拐じゃない」
先生は表情を変えずに答える。
「君が俺から逃げ続けて、あんな男とじゃれているのが悪い」
あまりの言い方に、あたしはカッとなって叫んだ。
「あんな男って! 麻生くんは、どこかの誰かさんよりずっと優しくて誠実だもん! 麻生くん
は、あたしの――」
そこまで言うと、急ブレーキがかかる。いつの間にか海辺まで車を走らせていた先生は、そこ
で車を停めた。
「君の、何? まさか恋人だとでも言うつもり? 言ったはずだよ。君は俺だけの『若紫』だと」
若紫。
その言葉に、胸がさらに痛む。
「何よ! 『若紫』なんて言って……所詮、代わりでしょう? 片桐先生の……あなたが忘れら
れない人の、身代わりじゃないっ! よかったですね? ホンモノと再会したんだから、あたしな んてもう必要ないでしょう?」
皮肉を混ぜて言ったあたしを、先生は苦しそうな表情で見つめた。
「違う。君は代わりなんかじゃない。俺は、君自身を愛しているんだから」
あたしは哂って首を振る。そんな言葉、もう一つも信じられない。
「源氏の君と同じですよ。結局……誰も、『藤壺の宮』には敵わないんだから」
だから。
あたしは、ボロボロに傷つく前に先生から離れたいの。
あたしの後ろに、誰か違う人の面影なんて見て欲しくない。
「頼むから……話を聞いてくれないか、むぎ」
不意に長い息をついて、先生が言った。
「確かに、雪音……片桐先生とは、昔付き合っていた。いわゆる不倫の関係だね。光源氏と同
じさ。学校の先輩でもあった彼女を……結婚していると知りながらも愛した」
そんな言葉、聞きたくない。
先生がどれだけ彼女を愛していたかなんて。
そんなの、知りたくない。
「けれど……。結局、傷つけあって終わったんだ。当然さ、そんな不安定な関係が長続きする
はずもない。それも分からないくらい、俺も子供だった」
その当時を思い出すように、先生は呟く。その声には、後悔の響きがあった。
「彼女の代わりを探したことなんか、ないよ。俺はただ、求めただけだ。今度こそ、俺だけのた
った一人の存在を見つけようと。そして、その人を俺の全部で愛し抜こうと決めたんだ。俺はあ の学園で、やっとその存在に廻り逢えたんだよ……むぎ、君にね」
そっと、先生の手があたしの頬に伸びる。
あたしは、その手を拒むことも出来たはずなのに……シートから、動けなかった。
切なさの燈る先生の瞳から、目をそらせなかった。
「信じてもらえなくても仕方がないとは思う。俺は雪音と別れた後、随分と女性関係が派手だっ
たからね。君は、許せないと思うかもしれない」
先生の指先は、細かく震えていた。
いつも余裕の表情を見せて、大人な先生の指が……。
あたしに触れることが出来ず、震えている。
「無様だね。俺は、こんな時に君に信じて貰う言葉すら持たないんだ。けれど……ねえ、むぎ。
分かるかい? 俺のすべてが、君だけを求めている」
先生の瞳には、あたしだけがいて。
震えるその指の先には、あたしがいて。
先生の唇は、あたしだけを呼ぶ。
苦しくて、痛くて、切ない。
手を伸ばせば、あたしはまた傷つくかもしれない。だけど、この胸の痛みを消す方法を、あたし
はそれしか知らなかった。
「……キライ。なのに……どうしてまた、この手を取っちゃうんだろう、あたし」
指を伸ばして、先生の指先に触れる。触れた瞬間、火花が散るくらいに熱くて。そして指を絡め
れば、もう離れられなくなる。
「むぎ」
先生は、深い息をついてあたしを抱き寄せた。鼓動がすごく速くなっていて、腕の中が熱かっ
た。
「この腕の中でなら、幾らでも嫌いだと言っていいよ。百万回の嫌いの後に、必ず好きだと言わ
せてみせるから」
あたしは小さく笑う。
「百万回の後でも好きって言わなかったら?」
先生は、あたしの髪に指を絡めて言った。
「そうしたら、百万一回目の後に言わせるからいいよ」
本当に、自信家。
あたし、いつまでだって「好き」だなんて言ってあげないかもしれないのに。
「先生って、源氏の君より馬鹿かも」
溜め息をついたあたしの頬に、先生の唇が触れた。
「そうかもしれないね。けれど俺はもう、彼のように永遠に彷徨うことはないから」
頬に触れた唇が、ゆっくりとあたしの唇へと近付いて来る。
「とりあえずは、君が俺に『嫌い』と言わなくなる日を待つとしようか。俺のお姫さま?」
本当は、すぐにでもそうしてもいいんだけど?
でも、しばらくは言ってあげない。
そう決めたあたしは、久しぶりに触れる先生のキスに、そっと目を閉じた。
<END?>
依織先生シリーズ、続編です。
アレ……? 何だか今回も健全に終わっ……。
もう、そういうシリーズで(笑)「君の目覚めを待つ、気分は光の君」(@久遠恋歌)ってことでい
いんじゃないですか!
これは、企画が終わっても続けたいシリーズになりそうです。逃げるむぎと追う依織先生が新
鮮で、書いていて楽しいです! 幼馴染みの麻生くんもまだまだ引きさがらないでしょうし。
さて、「壱」の方には、りやさんの依織イラストをUPしました! 依織先生にメロメロになってくだ
さいませv |