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好きになった人は、とてもひどくて、とてもとても切ないひとでした――。
†
たった一度、依織くんを独占出来たあの夜から。
依織くんの言葉どおり、あたしはもう二度と依織くんには会えなくなってしまった。
あたしには、分かっていたから。
もう、お店に行ってもムダだって。
きっとあたしはお店の中に入れてももらえないだろうし、もし入れてもらえたとしても、依織くん
は冷たい瞳であたしを見るだろう。
そうなることが分かっていて、あたしは一夜だけの関係を望んだんだから。
『今までだって十分夢を見ただろう。夢はもう、終わりだ……』
あれは、一哉くんの言葉だっただろうか。
やっぱり、夢だったんだ。
依織くんと出逢ったことも、寂しい瞳を覗き込んだことも……そして、依織くんとひとつになった
ことも。
あの夜が『初めて』だったあたしの躯には、あの後しばらく微かな痛みが残っていた。
消えて欲しくない、とあたしは強く願ったのに。
これは、依織くんがあたしの中に来たしるし。だから、どんなに痛んでもいい、消えないで欲し
いと――そう、願ったのに。
あたしの躯にはもう、依織くんの痕は何も無い。
あの夜が夢じゃなかったって思えるものは、もう何も。
ひどい人だと思って恨んだり憎んだり出来れば、少しはラクになれるのかな。
でも思い出すのは、依織くんの優しい笑顔とか。あたしを抱き締めながら見せた、苦しんでいる
ようにも見えたあの表情とか。そういうものばかりで……。
やっぱり、あたしの中にある、「依織くんが好き」という気持ちだけはどう頑張っても消すことは
出来なかった。
もう、逢えないんだと分かっていても。
そうやって打ちのめされても、ちゃんと毎日仕事には行かなくちゃいけなくて。
逆に仕事に集中している間は余計なことを考えずにいられるから、あたしは今までよりも仕事
に没頭するようになっていた。
そんなある日のこと。
あたしは突然、いつもは特に話をすることもない部長に呼び出された。何か大きなミスをしちゃ
ったんじゃないかと青ざめるあたしを、部長はまじまじと見て思いがけないことを言ったんだ。
「鈴原くん……だね? 突然で驚いたと思うが、我が社の大株主が君に会いたいと名指しされ
たんだよ。心当たりはあるかね?」
あたしは思い切り首を振った。大株主なんて、名前すら知らないのに。
「あの……あたし、どうなるんでしょうか」
おそるおそる訊ねる。たった一人の家族であるお姉ちゃんは今イギリスにいるし、この会社を
クビになったりしたら、あたし明日からどうやって生活していけばいいのか分からないよ。
「いやぁ、私にもよく分からないんだが、とにかく君を連れて来るように、とのことだからね。今
から君を連れて行くが、くれぐれも粗相のないようにしたまえよ」
今度は、あたしは首を縦に大きく振った。大株主って、どんなおじいちゃんか知らないけど、ご
機嫌だけは損ねないようにしなくちゃ! と心に誓って。
普段は上がったことのない最上階のフロアまで、あたしは部長とエレベーターに乗って辿り着
いた。幾つか並ぶ応接室のひとつのドアを部長はノックして、一礼する。
「失礼します。鈴原むぎ君をお連れしました」
「入れ」
短い声が聴こえて、覚悟を決めたあたしは部長に続いて応接室に入った。
そこで。
あたしは思わず声を上げるところだったのを慌てて堪える。
「鈴原を残して、君はもう下がっていい」
予想していたよりもずっとずっと若い声の主が、部長を外に出す。一人残されたあたしは、呆
然としてその人を見た。
「え……? ディアデームが何でこんなとこにいるの?」
高級そうなソファにもたれてあたしを見ているのは、紛れもなく『クラブ ラ・プリンス』のオーナ
ーである一哉くん、その人だったんだ。
「その呼び方はやめろと言っただろう」
一哉くんは顔をしかめて、あたしにソファに座るようにと言った。
「あたし、大株主に呼ばれたって言われたんだけど」
「だから、俺がその『大株主』なんだろ? おまえ、案外ニブいな」
そんなこと言われたって、夜の街にいた人がいきなりこんな場所に現れて、事態を把握しろっ
て言う方が無理だと思う。
「ひゃ、百歩譲って一哉くんが大株主だとして。何であたしがここにいるって……ていうか何で
あたし、呼び出されたの?」
一哉くんは面白そうに笑った。店で会った時は、ネクタイなんてしていなくて、中のシャツももっ
と派手な色だったけど、今はいかにもビジネスマンみたいなスーツをきちっと着こなしている。
「おまえの勤め先を調べるのなんて簡単だったけどな。それがたまたま俺が株主をしている会
社だったから、ちょっと様子を見に来たんだ。おまえ、最近店に全然来ていないそうじゃない か」
あたしは少し頬を膨らませた。
「何よ。一哉くんが言ったんじゃない。もう店には来るなって」
「それは、そうなんだが……」
そう言って、一哉くんはあたしをじっと見つめた。
「な、なに?」
「いや……。おまえ、依織とは」
依織くんの名前を聴いた瞬間、あたしの躯は強張る。そして、俯いてしまった。
名前を聴いただけでこうなんだもん……到底忘れられるわけがないよ。
あたしの様子を見て、一哉くんも何かを察したんだろう。それ以上依織くんのことを訊ねようと
はしなかった。
「ところで、おまえ転職する気はないか?」
代わりに言い出したのは、そんなことで。
「はぁ!? 転職って、何よ急に……」
あたしはもう、目の前に座っている人が大株主だなんてことをすっかり忘れて普通に話してい
た。
「おまえ、なかなか面白いからな。暇つぶしに傍においてみたくなった」
一哉くんはにやりと笑いながら言う。
「暇つぶしって! あのね、あたしはあなたのオモチャじゃないんですけど?」
腰に手を当てて睨んだあたしの言葉を無視して、一哉くんは頷いた。
「おまえを俺の秘書にしてやるよ。ああ、上の者には俺から話を通しておく。おまえは明日から
俺のオフィスに出社しろ」
「ちょっ……! なんなの、それ!」
慌てるあたしを尻目に、一哉くんは立ち上がってその場にあった電話を手に取った。
「ああ、俺だ。そうだ……明日から。手続きは任せる。ではな」
そして、あっさりと言う。
「決まったぞ。これが明日からの俺のスケジュール。今のうちに把握しておけ。すぐにおまえが
俺のスケジュールを組み立てることになるんだからな」
あまりの急展開に、あたしは眩暈を起こしそうだった。
「待ってよ……あたし、あなたのことだって、『一哉くん』としか知らないのに!」
すると、一哉くんは「そうだったか?」なんて言って、胸元から一枚の名刺を取り出して放り投げ
た。
「御堂一哉だ。自分の会社の株主の名前くらい覚えておけよ」
御堂って!
あの、大きな会社を幾つも持っている……あの!?
「言っておくが、おまえには選択肢はないぜ? もうこの会社からおまえは退職することになっ
ているからな。俺の秘書をやるか、見事失業するか……どっちがいい?」
ニヤリと笑う一哉くんを、あたしは睨むことしか出来なくて。
結局あたしは、いつの間にか『御堂一哉の秘書』というものになるしかなかったのだった。
†
それからの日々の慌しさといったら、言葉にするのも難しい。
『あの』御堂一哉社長の秘書ということで、スケジュール管理はもちろん、出張やパーティーに
も同伴され、果てはちゃんと食事を摂る暇もない一哉くんのために、料理まで作って。
でも、やってみて分かったけど。案外あたしって、こういう仕事に向いているのかもしれない。一
哉くんて放っておくと自分のことには無頓着だし、整理整頓は苦手だし。半ば強引に秘書にさ れたけど、毎日は充実していた。
――依織くんのことを考えずにいられるくらいに。
こうして、いつか思い出ごと風化してしまうんだろうか。だけど、心の奥に刺さったままの棘のよ
うな想いがちくりと痛むたび、あたしは依織くんを思い出す。
あの、冷たい笑みも。
あの、優しい指も。
あの、切ない瞳も。
そしてあたしは、何一つ彼を忘れられないことを思い知らされるだけだった。
「むぎ。今夜は視察に向かう。おまえも同伴しろ」
ある日の朝、一哉くんがそう言った。
「今夜? えーと、今夜は一件パーティーの予定がありますけど?」
慌てて予定をチェックしたあたしに、一哉くんはあっさりと答える。
「俺が出なくても支障のないパーティーだろう? 面倒だ、いい。それより、今夜行くのは『クラブ
ラ・プリンス』だ」
ページを捲ろうとしていたあたしの指が止まる。
「え……?」
「最近足を向けていなかったからな。時々見に行って手綱を締めておくのも重要な仕事だから
な」
『クラブ ラ・プリンス』。
もう二度と足を踏み入れることもなかった、あの場所に?
あたしは……平気な顔をして行けるだろうか。
「……無理なら、おまえは行かなくてもいいが?」
一哉くんの言葉にハッとして、あたしは慌てて我に返った。
「う、ううん! 大丈夫、行けるよ。じゃあ、予定の調整しなおすね」
かろうじて微笑んでそう答えたけど、内心は動揺しっぱなしだった。
大丈夫。
『仕事』だもん。仕事……なんだから。
あたしは自分自身にそう言い聞かせるようにして今日の仕事に取り掛かった。
でも、いつもはしないようなミスを連発させてしまい、一哉くんの溜め息を聞くことにはなったん
だけど。
夜、八時。
予定どおり、一哉くんとあたしは『クラブ ラ・プリンス』の前に立っていた。
懐かしいその黒い扉が、今は何だか遠いもののようにも見える。
「行くぞ、むぎ」
一哉くんに促されて、秘書姿のあたしは彼に続いて久しぶりにその黒い扉の中へと入ったのだ
った。
「オーナー! お見えになるとは知らず……」
いつも入り口で出迎えてくれていたマネージャーの男性が慌てたように一哉くんを迎える。
「抜き打ちの視察というヤツだな。変わりはないか?」
一哉くんが訊くと、マネージャーは少し苦笑した。
「ええ……と言いたいところですが、実は少し。依織のことで」
あたしの足が止まる。『依織』って名前を聴いただけなのに。
「……依織が、どうした?」
「荒れていますね。遅刻も目立ちますし、接客もどこか投げやりで……。どうしましょうか」
あたしは、一哉くんの後ろに立って、何でもないフリをしてそのやりとりを聴いている。
「ふん……。後でテーブルに依織を呼ぶか。奥の席は空いているな? 何か飲み物を……あ
あ、こいつには軽いものにしてやってくれ」
一哉くんがからかうように笑う。あたしがお酒に強くないってことを知っているからだ。何度か一
緒に出たパーティーでも、最初のシャンパンで頬を赤くするあたしを一哉くんは見ていたらし い。
あたしたちはそのまま、奥の席へと通された。最初にこの店に来た時と同じで、一哉くんが通る
だけで他のお客さんから溜め息が洩れた。それは、この店だけじゃない。どこにいっても一哉く んは注目を浴びる。こういうのがカリスマっていうのかな……って、あたしは一哉くんの秘書を するうちに納得するようになっていた。
なるべく周りを見ないようにしながら歩いていたのに。
なぜか、そこに目が行ってしまって後悔した。
そこには……依織くんがいたから。二人くらいの若い女性に囲まれて、笑顔を浮かべている。
やっぱり、まだつらい。
他の女の人に笑顔をむける依織くんを見るのは。
そして、その笑顔が心からのものじゃないってこともあたしには分かっているから……。あたし
に向けられていた笑顔も、そういうものだったのかな、と思うだけで胸が痛かった。
「今夜も席は満席……か。悪くないな」
席につくと一哉くんはそう言った。
「ねえ、訊いてもいい? どうしてホストクラブを作ったの? 一哉くんて、その……」
あたしの質問に、一哉くんはブランデーを飲みながら笑う。
「俺らしくない、か? まぁそうかもしれないが……。少し興味があったんだよ。ビジネスとしても
面白いと思ったしな。何より、こういう華やかな光と同時に暗い闇を背負う男がどう変わるのか も見てみたいと思ったな。依織のような」
甘いカクテルを飲んだあたしを一哉くんは見つめた。
「あいつは、この街を象徴しているような男だ。そのまま闇に染まり切るか、それとも違うのか
……おまえも気になるんじゃないのか?」
あたしは、答えられずに俯いた。
そんなあたしの肩を、一哉くんが不意に抱く。
「か……っ、一哉くん!?」
「今日の俺は、おまえの専属ホストだ。おまえは秘書の仕事をよくこなしてくれているからな。そ
の礼だとでも思っておけ」
あたしはあたふたしてグラスを置いた。
「だからって! 一哉くんがこんな……」
「何をして欲しい? 『シャンパン・ウィスパー』やってやろうか?」
そう言って、一哉くんがあたしの耳元に顔を近づけてくる。
「ちょっ……!」
心臓が跳ね上がって、あたしは一哉くんから逃げようとする。けれど、一哉くんの腕は強くあた
しを抱き寄せていて、それを許してはくれない。
「では、こう言えばどうだ? おまえとこの店で話した時から、俺はおまえを気に入っていたんだ
と。秘書にしたのはおまえを独占したかったからだと」
一哉くんの言葉が耳の中に忍び入る。あたしはすっかり混乱して、何も答えられなくなってい
た。
「なぁ、むぎ……?」
さらに一哉くんが囁こうとした、その時だった。
「お呼びですか、オーナー?」
あたしたちの目の前に、彼が立った。
依織くん――。
最後に見たあの夜よりも、瞳に宿る光が鋭くなったような気がする。鋭利な刃物のような眼差し
をあたしたちに向けている依織くんの声は、冷たく響く。
一哉くんは、あたしの肩から手を離すことなく、抱き寄せたままで依織くんを見た。
「最近、おまえの様子がおかしいとマネージャーに聞いたからな。どうしたんだ?」
肩に回された手が、あたしの頬を撫でるようにする。髪に指が絡んだりもして、それは恋人に
するような仕草にも見えるだろう。
依織くんは無表情のまま、あたしたちを見つめていた。
ここにいるのが、あのあたしだって依織くんに分からないわけはない。
どんな気持ちで、今彼はあたしを見ているんだろう。
それとも、何も思っていない? やっぱり、あたしのことなんて忘れてしまった?
「――別に。いつもどおりですが?」
依織くんは短い言葉で答えた。
「そうか? ならいいんだが。仕事に私情を挟むなよ」
すると、それを聴いた依織くんの目に皮肉げな光が浮かぶ。
「私情を挟んでいるのはどちらでしょうね? 言っておきますが、ここは『ホストクラブ』ですよ?
オーナーが可愛い秘書といちゃつく場所ではありません」
息を呑んだあたしの横で、一哉くんはクッと笑った。
「確かに。魅力的なホストがたくさんいるここは、口説くには一番適さない場所かもな……なぁ、
むぎ?」
あたしの耳を軽く噛むようにして一哉くんは言った。
あたしはその空気にいたたまれず、席を立つ。
「す、すみません! あたし、ちょっとお手洗いに……」
すると依織くんがにっこりと笑う。
「ああ、では僕がご案内しましょう。どうぞ? オーナーの秘書さん?」
手を取られ、あたしは依織くんに連れられて席を離れた。
足早に依織くんはあたしを店の奥へと案内していく。そして、トイレの前まで来るとドアを開け、
あたしを中に入れるとなぜか自分もその中に入って鍵を閉めた。
「い……依織、くん?」
依織くんは怖い瞳であたしを睨む。
「なぜ、またこの店に来た?」
あたしは、泣きそうになる気持ちをぐっと堪えて依織くんを見つめ返した。
「し、仕事だもん! あたしは一哉くんの秘書で……」
「ふぅん。ただの秘書というわけではなさそうだね? オーナーとは随分親しそうだった」
なぜか悔しくなって、あたしは答える。
「そんなの、依織くんには関係ない! ……依織くんだって、あたしのこともう関係ないって思っ
てるんでしょ? あの時だけだって。だからあたし、依織くんのこと忘れなくちゃって、必死で… …」
バン、と大きな音がした。
依織くんがドアを拳でたたきつけた音だった。
「ああ、そうさ! 君はもう関係ない。俺には関係のない人だと……君が離れていったことを、
喜んだよ。これ以上君が俺に深入りする前に離せてよかったとね!」
依織くんの言葉を、あたしは悲しい気持ちで聞く。
やっぱり。
依織くんは、あたしとのことなんか忘れたかったんだ。
早く離れて欲しかったんだ……。あの夜だって、一夜だけだっていう条件で、一緒に過ごしても
らっただけだもの。
「だったら」
自嘲気味に笑ったあたしの頬を、依織くんの両手が包む。
「どうして俺は忘れられないんだ。あの日から君の面影がチラついて眠れない。君の声やぬくも
りを思い出して堪らない。君に逢いたくて、君を抱き締めたくて我慢出来ないんだ!」
依織くんの表情が切なげに歪むのを、あたしは見た。
「それなのに、君は一哉の秘書なんかになって。一哉にされるがまま……この髪や肌に触れさ
せて。一哉に囁かれる君を見た時、感じたのは嫉妬だけだった」
嫉妬?
あたしが、他の女の人と一緒に楽しそうに笑う依織くんを見た時に感じたようなあの感情を、依
織くんも抱いたの?
「俺なんかが触れてはいけない。俺が汚してはいけない子だと思っていた。だから君を突き放
そうとしたんだ。それを……君は粉々に壊してしまったよ」
どうしてくれる? と依織くんはあたしの瞳を覗きこむ。答えられずに見つめ返すと、依織くんは
ふっと笑った。
「とりあえず、君の上司から君を奪い返さないとね」
トイレの鍵を開け、外に出ると。
依織くんはあたしを抱き上げた。
「きゃあぁっ!」
そのまま、依織くんはあたしたちが元いた席までどんどんと歩いていく。周りのお客さんたちも、
ホストたちも。唖然とした表情であたしたちを見ている。
「依織……」
席に戻ると、一哉くんが呆れたようにあたしたちを見た。
「オーナー。俺の退職届の代わりに、あなたが見届けてください」
依織くんはいたずらっぽく笑うと、あたしの顔を覗き込む。
「依織、くん?」
「言っただろう? キスは魔法だと。今から君に、魔法をかけてあげる」
微笑んだ依織くんの顔が近付いて、あたしは咄嗟に目を閉じた。
同時に唇に触れるぬくもり。
それは、確かに魔法だった。
解けないで欲しいと強く願うほどの……魔法だった。
「おまえら……。むぎは辞めさせないぞ。俺も優秀な秘書に辞められては困るんだが」
一哉くんの声に、依織くんはようやく顔を上げる。
「彼女が俺に独占されて、それでも秘書を辞めたくないというのなら、邪魔はしませんが?」
「結局、トラヴィアータか……? むぎ」
一哉くんが溜め息と一緒に呟いた。それを不敵に笑った依織くんは一哉くんに背を向けて、あ
たしを抱いたままで店の入り口へと向かっていく。
「依織くん、いいの!?」
「野暮なことを言うものではないよ、お姫さま。君にキスした瞬間に、俺にかかっていた魔法は
解けたんだ。もう自分の心を縛ったりしない。君を愛したいという気持ちを止められないから」
黒く重いドアを、初めて依織くんと一緒に外に出る。
「君が俺を、解き放ってくれたんだよ。この街の闇から」
『あいつは、この街を象徴しているような男だ。そのまま闇に染まり切るか、それとも違うのか』
一哉くんの言葉が甦る。
あたしは、依織くんにしっかりと抱きついた。依織くんが闇に囚われないでいてくれるのなら。あ
たしがそこから解放させられるのなら。
いつまでだって、こうして抱き締めていようと思った。
「さて。たった今から職を失ってしまった哀れな彷徨い人を……慰めてくれますか? 俺だけの
お姫さま?」
おどけるように、依織くんが言って。
あたしは、自分からその唇に自分のそれを重ねることで、返事に代えた。
†
あの夜の依織くんとはまるで違って、今夜の依織くんはすべてをかなぐり捨てたように情熱的
だった。
あの日、依織くんはあたしの躯に痕なんてひとつもつけなかったのに、今日は隙間もないくらい
紅い痕があたしの首筋や胸に散っていく。
「依織くん……! 熱い、よ……」
喘ぐように呼吸するあたしの唇を依織くんは塞いだ。
「もっともっと熱くなればいい。俺が火をつけてあげる」
一際大きな花を胸元に咲かせた依織くんは、顔を上げて艶めいた瞳をあたしに向けた。
「ほら。ここはもう、蕩け落ちそうなほど熱い」
あたしの足の間に手を伸ばした依織くんの指が、くちゅりと音を立てさせる。あたしはびくん、と
躯を揺らしてしまう。
「もっと優しく君を抱けばよかったと、俺がどれほど後悔したと思う? 初めての君に無理をさ
せてしまっただろう? 俺は」
依織くんの指が中に入って来る。もどかしい疼きを感じながら、あたしは首を振った。
「そんなこと、ないよ……。あたし、嬉しかったもん。依織くんがね、奥まで入って来てくれて…
…ひとつになれて。すごく嬉しかった」
あたしの唇を撫でていた、依織くんの指を唇に含む。ずっと恋しく思っていたその指先に、あた
しは舌を絡めて誘った。
好き。
諦めなくちゃいけないと分かっていても、止められなかった。
もう一度依織くんと抱き合えるなら、何を引き換えにしてもいいとさえ思っていた。
「むぎ……!」
依織くんは指の代わりに、唇であたしの唇に触れた。
キスはどんどん深くなり、餓えていたあたしは依織くんのキスをもっと、とはしたなくねだってしま
う。
「いくらでもあげる。俺が持っているものは、全部君にあげるから」
狂おしく依織くんが叫び、中に入る指が増やされる。あたしは躯をのけぞらせ、ただ依織くんの
名前を呼び続けた。
「凄く溢れているね? 君も俺を欲しがっていると思ってもいいのかな」
引き抜いた指をあたしに見せつけて、依織くんはその指を舐めた。
「ぅ……ぁ……」
依織くんの指先から、手首にまで伝っていくその蜜を見ながら、羞恥心で頬が染まっていく。
「もっと狂っていく君を見たいという気持ちもあるのだけれど……。今夜は俺の方が我慢出来な
そうだ」
露わになった剛直が、あたしの濡れた場所に近付く。依織くんはそれに手を添えて、濡れた狭
間や尖る花芯に擦り付けるように往復させた。
「あ、あっ……! やあぁんっ!」
焦れたあたしは、腰を揺らす。先端が少し中に入っただけで、大きくあたしの躯は反応してしま
う。
「トラヴィアータ……か」
自嘲するように依織くんが呟いた。それは、店を出る時に一哉くんが言った言葉。それに、以
前にも一哉くんは同じ言葉を言っていた。
「なぁに? それ……」
とっくに全身に火がついた躯を持て余しながら訊いたあたしに、依織くんは答える。
「ラ・トラヴィアータ。日本語では『道を踏み外した女』かな。言い得て妙だよね」
依織くんは、あたしの躯のわきに手をついてあたしを見つめた。
「俺のために、君は――」
あたしは依織くんの腕を掴んで首を振る。
「違うよ! 道なんて踏み外してない。あたしは依織くんと一緒にいたいだけだよ? 依織くん
がいる場所が、あたしの『道』だもん……!」
そんなあたしを、依織くんは驚いたように見つめて。
そして、とびきりの笑顔で微笑んでくれた。
「ありがとう……俺の、たった一人のお姫さま」
ゆっくりと、依織くんがあたしの中に入って来る。
熱い楔があたしをこじ開けて、中を進み、最奥を穿つ。
瞬間的に燃え上がったあたしは、高い叫びを上げて、依織くんの腕に爪を立てた。
「むぎ……!」
あの夜には気付かなかった、依織くんの苦しそうで切なげな表情が目に映る。
ああ、あたしの中にいる時の依織くんはこんな顔をしていたんだ……と、愛しさが溢れて涙に
変わる。あたしは依織くんの全部を受け入れて、もっともっと乱されたくて。自分から躯を依織く んに近付けていった。
「こら。そんなに誘うなんて……いけない子だね」
依織くんは苦笑しながら、汗を拭った。
「俺も自分が制御出来なくなるよ……? いいの?」
激しい抽挿を繰り返しながら訊ねる依織くんに、あたしは頷いた。
「いい、よ……! いっぱい、いっぱいきて……?」
依織くんはあたしを抱き締めると、吐息を零す。
「本当に、君って子は……。俺を壊すのが、上手いね」
優しく髪を撫でながら、さらに深く穿たれてあたしの背中が撓む。
「あぁっ!」
「二人で、どこまでも堕ちていこうか……むぎ」
喘ぐあたしの唇を塞いだ依織くんの唇も熱くて。どこまでも溶け合っていきたいと願いながら、
あたしは愛しい人を抱き締める。
「大好き……だよ」
依織くんの律動が速まり、互いの鼓動がうるさいほどに大きくなって。
途切れ途切れの息の中、あたしはやっとそれだけを彼に伝える。
依織くんは嬉しそうに微笑んで、あたしの耳を噛んだ。
「俺も。愛しているよ……もう、君にしか囁かない」
それは。
とびきりの『囁き』で。
あたしは全身をピンクのシャンパンに変えて、依織くんに溶けてしまったのだった。
†
あの日は、朝が来る前に別れた。
けれど今、夜明けを迎える時間になっても、少年のような顔をして眠る依織くんがあたしを抱き
締めていてくれる。
夜が終わっても。
あたしは依織くんの恋人でいられるように、と。
依織くんの唇に、あたしはもう一度小さな『魔法』をかけた。
すぐに返ってくる唇の魔法で、あたしはその魔法がもう二度と消えないことを知る。
<END>
依織図鑑第3弾、ホスト依織編でした! 本領発揮(笑)のあまり、長くなってしまったので2つに 分けました。
実際依織がホストだったら私毎晩通いますけどね……(笑)。歌舞伎町の王子っぷりを直に見
たいものです。
最初、一哉もホストにしようと思ったんですが、あまりに偉そうだったのでやめました(笑)代わ
りに、何だかセクハラ上司っぽくなってしまったわけですが、反省はしているが後悔はしていな い。
今回は、miiさんにイラストをいただきましたー!O(≧▽≦)O
夜が似合いすぎる依織イラスト、本当にありがとうございました! 胸元をはだけずにネクタイ
をする依織も新鮮ですね♪ |