the latter part
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Fateful Day
まったく。
いったいどこの誰が"バレンタイン・デー"なんてくだらない日を考え出したのだ。
それに皆が踊らされて浮かれ騒いでいる。
たったチョコレート一つのことで。
……しかし……
私も。
その踊らされている男の一人、なのだろうか……。
the latter part
明日が休みなのをいいことに、私は『CANTALOUPE』で次々にグラスを重ねた。
「零一。さすがにそろそろやめとけ。幾らお前でも帰れなくなるぞ」
益田が呆れたように私を見ている。
時間はもう22時。普段の帰宅時間をとっくに過ぎていた。
「うるさい。ここは酒を出す店だろう? グラスが空だ。さっさと注げ」
理性ならまだ十分残っている。
こんな時でも完全に理性を失えないところが、私の損な性分だと思っている。
一度でいい。
理性を失くすような経験をしてみたいものだな……と思いながら、グラスに残っていたブランデ
ーを飲み干した。先ほどから、ウィスキー、ジントニック、ワイン、そしてブランデーと手当たり次
第に飲んでいる。もはや酒の味さえ分からなくなってくるほどに。
「お前ねぇ……。いいから今日はこれを飲んで帰れ。そんな怖い顔したデカイ男にカウンターに
居座られたらこっちも大迷惑だよ」
益田はそう言うと、私の前にカクテルグラスを差し出した。
「何だ、これは」
クリームがかった褐色の飲み物。
何やら甘い匂いがする。
「アレキサンダー。バーバラよりは今日向きだろ? チョコレートもらえなかった零一くんに俺か
らのバレンタインプレゼント」
益田はそう言って片目をつぶってみせた。
いつでも一言余計なんだ、お前は。
私は、『アレキサンダー』のレシピを思い出していた。
クレームド・カカオとブランデー、それから生クリーム。
まさに今日向きなカクテルだな……きっと今夜はもうこのカクテルを何杯も作ったのだろう。幸
せな恋人たちのために。
「さっきも言ったろ? まだバレンタインは終わっちゃないって。何か奇跡が起きるかもしれない
ぞ」
陽気に笑って益田は別のグラスを取り上げると他の客のためのカクテルを作り始める。
私はそれに口をつけた。
甘い。
まるで菓子のようなカクテルじゃないか。
その甘さと濃厚なカカオの香りに、私は彼女の笑顔を思い出してしまって。
残像を追い払うように、甘いカクテルを一気に飲み乾した。
☆
半ば追い出されるようにして『CANTALOUPE』を出て一人マンションへの道を歩く。
たまにはこうして歩いて帰るのも悪くない。
冷たい風が酔いを醒ましてくれるし、月もいい三日月だ。
そう考えて私は、ふっと小さく笑った。
以前の自分ならば。月をそう感じることもなかっただろうに。
何にでも感動する彼女と一緒にいるうちに、何気ないものの美しさやいとおしさを感じるように
なった。
今まで気にも留めなかったことが新しい発見のように思えてくる。
彼女は私の世界を広げてくれる。
そのような意味では……彼女こそ私の『先生』なのかもしれなかった。
そして、彼女に与えられた他の何よりも大きなもの。
この感情……だ。
恋を知り始めた少年のように、彼女の一挙手一投足が気になって仕方がない。
彼女のほんの小さな仕草や微笑みにも動揺してしまう自分がいる。
『教師』が『生徒』に抱く感情ではないな。これは。
そうだ。私はとっくに分かっていた。
彼女の前では『教師』でいることが自分に。
気付いていながら……認めようとしなかっただけだ。
自分のマンションに近付く頃には、だいぶ酔いも醒めていた。
酔いの醒める瞬間というのは、あまり好きではない。
もっと酔っていたかったような気にもなるし、先ほどまで酔っていた自分を恥じるような気持ちに
もなるし。
その瞬間を迎えないようにするためには、そのまま寝てしまうのが一番なのかもしれないが。
今夜は眠りに落ちる前にその瞬間を迎えてしまいそうで、私は軽く舌打ちをしたい気分になる。
マンションのエントランスに近付いた時だった。
何か白い物体がそこにうずくまっている。
猫……か何かだろうか。
それとも、まだ酔いが残っているのか。
不審に思いながらも、少しずつ近寄る。やがてそれは、猫よりも大きなものだと分かる。
ふいに、その白いものが動いた。
「!」
思わず大声を上げそうになるのをかろうじて堪える。
それは、人だった。白いダッフルコートを着た。肩までの髪の……少女
その少女が私の気配に気付き、顔を上げる。
「氷室、せんせい……? お帰りなさい」
にこっと笑ったその顔は、夜目にも白い……というか青ざめている?
「! き、君はここで何を……っ!」
マンションのエントランスに座り込んでいた少女は、彼女だったのだ。
膝を抱えてうずくまり、私を見上げている。
「先生を、待ってました」
その言葉を紡ぐ唇が震えている。慌てて彼女を立たせ、その手に触れると氷のように冷たかっ
た。
「まさか……ずっとここで待っていたのか? いったい何時から……」
時間はもう23時に近い。
この手の冷たさから察するに、待っていた時間は一時間やそこらではないだろう。
「そ、そんなでもないですよ? 寒くなったら走ったりしていたし」
青ざめた唇でそんなことを言う彼女を抱きしめてしまいたい衝動を堪え、その代わりに手を強く
引いた。
「話は後だ。とにかく中に入ろう」
酔いはとっくに醒めていた。
目覚めていながらその瞬間をすっかり気にも留めなかったのは、これが初めてだった。
部屋までエレベーターで上がる間も、彼女は小さくかたかたと震えている。
そっとその肩を抱き寄せた。これは、彼女を少しでも温めるためだと自分に言い訳しながら。
彼女は、黙って私の腕の中にいた。
部屋に入ってすぐに彼女をリビングのソファに座らせ、私はキッチンに立った。
男の一人暮らしの部屋だ。大したものが揃っているわけではないが。
「コーヒーでいいか? 他に出来るものは……ないのだが」
キッチンから彼女に声をかけると、彼女が振り向いて立ち上がった。
「あ、私が」
凍えているのは、君だろう?
そんな青い唇をして。
いいから座っていなさい……と言う前に、もう彼女はキッチンに来てしまう。
「私にやらせてください。
……そのために、先生を待っていたんですから」
コーヒーを、淹れるために?
疑問符が私の脳内を占める。
逆に、私はキッチンを追い出されて所在無く先ほどまで彼女が座っていたソファに腰掛けた。
いったい。
今の状況を私はどう判断すればいいのだ。
彼女が私を待っていて、私の部屋のキッチンにいる。
土曜の、日付も変わろうという時間に。
そこまで考えてハッと気付く。
こんな時間に!
私は、女生徒を自分の部屋に連れ込んでしまったというわけか。
すぐに彼女を送って行かなければならない……しかし私はかなり多量のアルコールを摂取して
しまった。
そうなると、タクシーで……。
「先生、お待たせしました」
いつの間にか、淡いクリーム色のニットの上にエプロンを着けた彼女が私の後ろで微笑んでい
る。
「先生もマスターさんのお店から歩いて来たんでしょう? 温まりますから飲んでください」
そう、私にカップを差し出す。ブルーとグリーンのチェックが淵を彩るそのカップは、私には見覚
えのないものだったが。
「そんなことより! 何故君は私を待っていた? しかもこんな夜遅い時間に。ご両親が心配さ
れるだろう。若い女性が出歩いていい時間ではない」
彼女が無言で隣のソファに腰掛ける。
「何か質問でもあったのか。それならばこんなに夜遅くではなく、明日にでもすればいいだろう。
それに……」
そうだ。
彼女がここにいることに、何の期待も抱いてはならない。
きっと、向学心旺盛な彼女のことだ。何か質問したい事項があり、月曜を待ちきれずにここま
で来てしまっただけに違いない。
それでは、一刻も早くその疑問を解消してやり、自宅まで送っていくのが最良の選択肢で…
…。
だから。
私は彼女の行動に、何の期待も抱いてはならない。
途切れてしまった言葉を探す私を遮るように、彼女が私を呼んだ。
「先生」
彼女の声は、まだ僅かに震えている。
頬に血行は戻ってきているが、まだ寒いのかもしれない。
「その前に、これ飲んでください」
何かを哀願するような瞳。
彼女がカップを手にとって私に持たせる。
促されるまま、私はそれに口をつけた。
コーヒーでは、ない?
コーヒーよりも粘度があり、そしてほんの少し甘い。
「これは……?」
その液体が喉を通っていくのを感じながら彼女に訊いた。
彼女はそれを見てホッとしたような笑顔を私に見せる。
「よかった。ギリギリ間に合いました」
どういうことだ?
時計を見ると、ちょうど0時を迎えたところで、日付が変わっていた。
「これ、バレンタインデーのチョコレートなんです。ホットチョコレート。そんなに甘くないから、先
生でも大丈夫でしょう?」
嬉しそうに手を合わせて。
「ああ、確かに美味しかった……ではなく! もしかして君は、私にこれを飲ませるために…
…?」
期待など。
何の期待も私は……。
「だって、バレンタインデーのうちに、渡したかったんですもの……」
彼女は、私をじっと見つめている。
「これは、学校では渡せないでしょう? それに、先生から『チョコレート受付箱に入れるように』
なんて今年も言われるのイヤだったんです。
こうやっておうちの前で待ってたら、直接渡せるかなぁ……って。飲んでもらえるかなぁって期
待してたんです。先生、飲んでくださってありがとうございました」
一瞬、切ない光をその瞳に灯して。
彼女は、頭を下げるとソファを立ち上がろうとする。
「待ちなさい」
私は、思わず彼女の手を握り締めて引き止めていた。
驚いたように彼女が振り返る。
彼女の手をとらえた自分の手が熱い。
まるで、心臓がそこに移動してしまったようだ。
私を……俺をそんなにまっすぐな瞳で見つめないでくれ。
こういう感情には、まったく慣れていないのに。
ただでさえ今日は絶望と諦めを経験している。そのために飲んだアルコールの量はいつもの
倍だ。
君は、今度はそんな俺を有頂天にさせようというのか?
本当に、君は……。
「せ、先生!?」
手を掴まれたまま、彼女がうろたえる。
「確かに、この飲み物は『チョコレート受付箱』に入れるようにとは言えないな。
それにしても。君はこれと同じものを……コホン、その、益田にも?」
頼む。俺をこのまま、有頂天でいさせてくれ。
少しの沈黙の後、彼女は首を振った。
「いいえ……これは、先生だけです。益田さんにも、他の誰にもこのホット・チョコレートはあげ
ていません」
そして、思い切ったように一度きゅっと引き結んだ唇を開く。
「私は、先生のことが好きなんです」
だから、ずっと先生を待っていたんです……と。
彼女は消え入りそうな声で続けた。
俺はまだ、酔いから醒めていなかったのかもしれない。
理性が音を立てて崩れていくのを感じていた。
大きく息を吸う。
もう、彼女に流れていくこの感情をせき止めることは俺にはできない。
「」
肩までの髪がふわりと揺れる。
君が毎日、髪を揺らして俺のところに近づいてくるのを見るたびに。
いつからか、その笑顔を独占したいと思っていた。
他のどの男にもそんな笑顔は向けないで欲しいと。
「その……私は今、多少アルコールが入ってはいるが」
彼女が大きな目をさらに丸くする。
そういえば、そうだった。
俺は彼女の前ではアルコールを摂取したことはなかったな。
「だからと言って、これはその場の勢いだとかそういった類のものではないということをまず君
に言っておく」
いったい、俺は。
何が言いたいんだ……。
こういう時に上手く言葉が出てこない自分を呪った。
きっと益田なら上手く言葉を繋げるだろうに。
「せん、せい?」
戸惑いがちに彼女が俺を呼ぶ。
何か言いたそうな彼女の唇から目を逸らして、一気に俺は彼女に告げた。
「俺も……君のことが、好きだ」
まるで、本当に高校生のようだな、俺は。
ストレートすぎる言葉しか出てこない。きっと、彼女も呆れているだろう。
「好きなんだ……君が今日、俺にチョコレートを持って来なかった時に、ようやく分かった。そし
て君が俺のマンションの前でうずくまっているのを見た時に、それは確信に変わった。
好きだ、……いや、」
一生分の言葉を使い果たしてしまったような気がする。きっと今、俺の頬は真っ赤になっている
はずだ。
彼女を見ると、彼女は潤んだ瞳で俺を見ている。今にもその目から涙が零れてしまいそうで、
俺は慌てた。
「お、俺は何か君を泣かせるようなことを言ってしまっただろうか。泣くほど……嫌だったか?」
しかし彼女は首を振り、慌てる俺の腕の中に飛び込んできた。
「嬉しい! 先生、本当ですか? もう、冗談だって言っても聞きませんよ?
本当の、本当に、本当ですか?」
俺のスーツをギュッと握り締め。
彼女がすがるような目をするから。
「本当だ。信じられないか……?」
俺は、彼女を引き寄せた。まだ頬が熱い。彼女の頬と触れ合わせれば、彼女の頬も同じくらい
に熱かった。
「俺は、こんな時に冗談は言えない」
そして。
さっきまで俺をまって青ざめていたその唇に、そっと口づける。
初めて触れた彼女の唇は、彼女がくれたホット・チョコレートよりも甘く、熱かった。
離れがたくて、そのまま何度か口付けをかわし。
さすがにこのままでいたら最後まで何とか保とうとしていた理性が跡形もなくなってしまうと思
い、そっと彼女から離れようとしたのだが。
彼女は、駄々をこねるように私のスーツを離そうとしなかった。
「……離しなさい。もう遅いだろう? 君の担任として、こんなに遅くなってしまったのは不
本意だが……すぐに送っていくから」
この言葉は半分嘘だ。
本当は、彼女をこのまま離したくない。
けれど、こうでも言わなければ本気で彼女を閉じ込めてしまいそうで。
そんな私の気持を知ってか知らずか、彼女は駄々をこねるように俺のスーツを離そうとしな
い。そして怒ったような表情で俺を睨んだ。
「名前で、呼んでください! こんな時まで先生なんて……ズルイです」
俺の胸に頬を埋めて。
そんな……ことを、されたら。
鼓動がどんどん速くなっていく。
「っ! とにかく、離れ……」
途端、その言葉を塞ぐように唇が重ねられる。
「な……き、君は何を!」
「先生が私のこと苗字で呼ぶたびにキスしますからね。ずっと、先生に名前で呼んで欲しかった
んですから」
俺だって。
ずっと君のことを名前で呼びたかった。
君の同級生の男子が君のことを名前で呼ぶのを聞くたびに、それを羨ましくも妬ましくも思って
いたんだ。
「しかし、……」
「また!」
そして悪戯に重ねられる唇。
もう、それで。
何もかも捨ててしまおうと思った。俺を止める理性とか、倫理とか、ややこしいものは全部。
残ったものは、彼女への愛しさだけだった。
「……俺も、男だからな。ここまでされたら、もう君を無事に帰してはやれないぞ……」
逆に、彼女の肩を掴んで。
俺は、彼女を強く抱きしめる。さらに、彼女からされた悪戯なキスではなく、もっと深い口づけを
彼女に与える。
「せん……せい……?」
逆に戸惑い、怯えた色を瞳に滲ませる彼女を、俺は笑った。
「こういう、ことだ。分かっただろう? どうする? 君が怖いというのなら、俺はこのまま君を送
っていくが。選ぶのは、君だからな」
そうだ。
このまま君がここにいるということが、俺が君を抱いてしまうということだ。
それでも君は――かまわないのか?
は、小さく、それでもはっきりと頷いた。
「今日は、帰らないつもりです」
そんなセリフは、まだ君には早いと。
いつもの俺ならまた諭していただろう。
しかし、今日は。
醒めない夢の中に迷い込んでしまったんだ……俺を引き止めるものは、何もないんだ。
「おいで」
潤む瞳で俺を見る彼女に、俺はもう一度深く口づけた。
CAUTION!
この先、成人向け表現が含まれます。
お嫌いな方・18歳未満の方はUターンをお願いします。
最後まで読まれた後の苦情は受け付けかねます★
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