Fateful Day

Fateful Day


私は、決して。
何も期待をしているわけではない。
こんな習慣など下らないと常々思っているし……。
そもそも生徒からの贈答品は受け取りかねるのであるから、貰ったところでそれは職員室前
の受付箱に入るだけなのだ。

だが、しかし。
どうして私は今朝、こんなに早く起きてしまったのだろうか。


the 1st part


今日は2月14日だ。
……どうやら世間では「バレンタインデー」と呼ばれる日であるらしい。
もちろん、祝日でも何でもなく単なる菓子業界の策略に日本中が踊らされているというだけの
話だ。
この日は毎年気が重い。
学校全体が何やら甘い空気で満ちているような、色で例えたらピンク色に染まっているような。
一種異様な雰囲気に包まれ頭痛さえ感じてしまう日だから。
私は堂々とチョコレートを見せびらかす男子生徒に注意を与え、性懲りもなく職員にチョコレー
トを渡そうとする女生徒には職員室前にあるチョコ受付箱への投函を促さねばならない。
そのチョコレートは後で職員全員に公平に分配されるが、甘いものがそう得意ではない私は毎
年その配布されるチョコレートにも辟易しているくらいだ。

そう。
私はそれほど好まないのだ。チョコレートなど。
だから別に……何を期待するというのでも、ないのだが。
「氷室先生!」
後ろから突然声をかけられて、私は思わず心臓が跳ね上がるのを感じていた。
この、声は。
聴き間違えるわけもない。これは彼女……我が氷室学級のエース、の声だ。
ゆっくりと振り返ると、予想通りにこにこと微笑んだ彼女が立って私を見上げている。
「おはようございます、氷室先生」
エクセレント。
いつもどおり、少しの乱れもない制服と髪型。
笑顔に至ってはパーフェクトだ。
……いや、私は何を。
「おはよう。今日は早いな」
もしかすると、こんな朝早くから私にあの甘い茶色の固形物を渡そうというのだろうか?
困った生徒だ。しかし、今は周りに誰もいないから例外を認めてもかまわないかもしれない。
……だから、私は何を。
「ええ、今日は英語の単元テストがあるので図書館で勉強しようと思って。少し自信がないんで
す」
照れたような表情になって彼女は髪に手をやる。
恥らう時に耳元の髪を弄るのは彼女のクセだ。
私はそれを、とても愛らしいと思う。
「そうか。感心だな。君なら今回も素晴らしい成績を修めてくれると信じているが」
私は平静を装ってそう告げた。彼女はそれを聞いて嬉しそうに微笑む。
「はい、頑張りますね! それじゃ」
彼女はぺこりとお辞儀すると私に背を向けた。
ん?
私の頭の中で用意していたセリフが空回りする。
『生徒からの贈答品は受け取りかねる。チョコレートは職員室前のチョコ受付箱に入れなさい。
……コホン。いいから貸しなさい。フム、よく出来ているじゃないか』
と、私は彼女に告げる予定ではなかっただろうか。
私がこんなことを回想している間に、彼女の背中は遠ざかっていった。

いや、もしかしたら朝ではなく休み時間や放課後に持ってくるつもりなのだろうか。
仕方ないな。
そう思いながら私は一時間目の授業に入ったのだが。
頭のどこかで彼女を気にしている自分がいて、それに気付くたびに打ち消して……。
結局今日の授業は非常に集中力を欠くという惨憺たる結果に終わってしまったのだった。

今日は土曜日だから、授業は午前中しかない。
しかし、彼女はその後一度も私のところに来なかった。
彼女ではない女生徒は何人かカラフルな包みを持って私の元に来たが、私は用意してあった
言葉の前半部分……すなわち『チョコ受付箱に入れなさい』までを事務的に告げただけだっ
た。
そして結局、後半の言葉も言わないまま下校時刻を迎える。


別に、私は。
何を期待していたというのではない。
むしろ困っていたくらいなんだ……バレンタインデーなんて日は。
それなのに、この胸の収まりの悪さは何なのだろう。
もし、彼女が違う男子生徒に……と考えただけで。
何かもやもやと気持ちの悪いものがこみ上げてくるのだが。
やはり去年、厳しく断りすぎたのか。
今更ながら後悔してみるが……後悔!?
私もいい加減どうにかしてしまったらしい。

このまままっすぐ家に帰る気にもならず、私は職員駐車場に一番最後まで残っていた私の車
を、家とは反対方向に走らせた。



「何だよ、やけに早いねお前」
『Closed』とかかっているドアを遠慮なく開けた私に、そんな声がかけられた。
まだ夕方の4時。この店『CANTALOUPE』が開店するにはだいぶ早い時間だ。
しかし私はマスターである益田の悪友であるという特権を利用してカウンターの中央の席に陣
取った。
「今日はいつもに増してご機嫌ナナメですねぇ、氷室センセ」
くっくと苦笑しながら益田が言う。
「……別に。どうということもない」
彼が差し出したのはコーヒー。彼いわく『まだ開店前だからソレでガマンしろ』ということらしい。
「今日はバレンタインデーだってのにさ。そうだ、零一お前もちろん貰っただろ?
あの生徒さんに」
思わず飲んでいたコーヒーをむせる。
それは今、一番触れてほしくない話題だった。
「あのコいい子だよな〜! さっきさ、ここに寄って俺にもくれたんだ。手作りチョコレート♪ 
ま、お前のは特大で愛情がもっと詰まったヤツなんだろうけど?」
益田の言葉に、私は今度こそ飲んでいたコーヒーを噴出した。
「おわっ! 零一汚いな! 何動揺してるんだよ……今どきチョコ貰ったくらいでさ。
純情な男子中学生じゃあるまいし」
呆れながらタオルを差し出す益田を、私はまじまじと見てしまった。
彼女が?
わざわざこの店に寄って?
益田に手作りのチョコレートを渡した……と?

そんな話はあり得ない……と思いたいが。
彼女の想い人は益田だということなのだろうか。
いやしかし……まさか。
それに、私はどうしてこんなに動揺しているんだ?
益田の腕の中にいる彼女を想像しただけで、カウンターの中で笑っているこの悪友を殴り飛ば
したくなってきた。
こんな、すっきりしない感情は。
それは……私が、彼女のことを異性として好きだと、そういうことだろうか。
だから朝からこんなにやきもきしていたと?

こんなことで気付くなんて。
必死に自分の中で否定してきたのに、彼女の笑顔が他に向けられていると考えた瞬間、自分
の気持ちに気がついてしまうなんて。
私はどこまで愚かなのだろう。

「もしもーし。先生? 氷室センセー?」
考え込んだ私の目の前で手がひらひらと振られる。
「今日のお前おかしいぞ? 何かあったのか?」
益田がグラスに氷を入れ、ウィスキーを注いで差し出したものを私は奪い取り。
一気にそれを喉に流し込んだ。
「おい! 零一っ!」
「……ないんだ」
流し込んだアルコールのせいで、体が熱くなる。
「は?」
「私は、未だ貰っていない」
益田が引きつったような笑顔を見せる。
「……もしかして。俺、地雷踏みまくり?」
おそるおそるグラスに次の酒を注いだ益田に、私はやけくそのように笑って答えた。
「ああ。踏みまくり……だな。そのすべてが見事に爆発したようだ」
私たちは、客の来ないジャズバーでひとしきり笑いあった。益田は気まずさを消そうとする笑い
を。私はすべてがどうでもよろしくなった笑いを。

運命の日に。
自分の気持ちに気がついてしまった日に失恋とは。
運命の神とやらも残酷なことをする。
しかも、今日は確か聖ヴァレンティヌスが守護する日ではないのか? 確か彼は恋愛の神とも
呼ばれていたはずだ。

私は相当酔っているらしい。グラスにウィスキーたった一杯で。
情けない。自分が馬鹿にしていた行事に一喜一憂させられて、自棄酒を飲むだなんて。
「零一。まだバレンタインは終わっちゃいないぜ?」
そう俺に呟いた益田の言葉も、もう何の慰めにもならなかった。


<to be continued…>


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