私の祖母が、満99歳でなくなった。静かにだんだんと息をしなくなった。孫が14人、夜叉孫までいる。
範子お祖母ちゃんについては、まだ学校に行く前の記憶が鮮明にある。痛くないげんこつはくれるなと言っていたように、お祖母ちゃんのげんこつは本当に痛くて、何を怒られたのかは全然覚えていないのに、その痛みの感覚が頭の脳天に残っている。また、私は記憶がないのだが、「ここまで追って来られるなら来てみろ」と言うようなことを言った私に対して、よし、ということで、追いかけて行って逃げる私を捕まえたということだ。私に対しては、「かずは返答返しをしたことがない」とよく言っていた。また、私に子供が産まれると、行くたんびお小遣いを曾孫にくれた。
お祖母ちゃんが鍬を担いだ姿を見たことがないという話を聞いたが、私も農作業しているお祖母ちゃんの記憶がない。ただ、菊作りはしていたようで、菊の前で写真をよくとった。
足の達者なお祖母ちゃんで、私が大人になってから、追貝(家から2km位)まで車で送っていくよというと追貝くらいへでもないと言って歩って行った。だからお祖母ちゃんが弱った感じがしたのは、足を悪くして余り歩かなくなったときだ。それと同時に気持ちも弱くなったような気がした。
教会のクリスマス会にはよく来てくれていた。12年程前、私が長野に来る直前のことだが、国立病院に入院していたお祖母ちゃんを見舞いに行った。「お祖母ちゃん、イエス様を信じる?」と聞いたら、「ああ、信じるよ」と言ったので、一緒にお祈りをした。
母には、ずいぶん甘えたお祖母ちゃんで、何から何まで皆母に頼っていた。「お祖母ちゃん、自分で出来ることは、なるべく自分でしないと、体が弱っちゃうよ。少しでも、歩いたり動いた方がいいよ。」等と言ってはいたが、自分はこんなに大変なんだということを憐れんで欲しいのか、両親がいると何でもやってもらおうとしていたようだ。でも、父が入院したときは、大分しっかりしたという。
今年になってからは、何度か危ないことがあり、また足など骨と皮ばかりになっていたが、足先は水がたまったようにパンパンに腫れていて、殆ど動けなくなっていた。父は、毎日体操をやってあげていた。
いくら長寿を全うしたとはいえ、なくなるのは悲しいことだ。しかし、お祖母ちゃんと天で再会する望みを持っていられるので、それが救いです。
{私が範子お祖母ちゃんに初めて会ったのは18年前の7月の末でした。初めて主人の実家に行ったときです。お父さんとお母さんはお留守で、お祖母ちゃんがジュースをご馳走してくださいました。その後、奥の部屋から、たくさんの写真を取りだし説明して下さいました。沢山の量だったので、どの人が誰なのか覚えきれませんでしたが、歓迎して下さっているのだと嬉しかったのを覚えています。結婚してからも、とてもお世話になりました。ゲートボールにも、よく行っておられ、凛とし元気なお祖母ちゃんでした。ハイカラだったお祖父ちゃんのことも、お祖母ちゃんから聞かせていただきました。健康にも、とてもきずかっておられ、私たちが下久屋に住んでいる頃は、医者の帰りによって下さいました。入院しているときも、娘とお見舞いに行くたびにキャラメルを下さいました。(娘にはキャラメルはまだ食べさせていなかったので、実は私がいただいてました。お祖母ちゃんご馳走様でした。)ここ数年、帰るたびに弱くなっておられるのがわかりました。今年の6月大楊に帰ったときも、お祖母ちゃんは眠り続けていました。お母さんの「お祖母ちゃんご飯だよ。」の言葉に流動食をしっかりと飲み込み続けました。毎食毎食自分の食事は後回しにして、流動食を作りお世話し続けたお母さんの思いが、意識が薄れるなかでも伝わり続けたのでしょう。「今度お祖母ちゃんに会うときは天国かも知れないね。」主人の言葉をかみしめ、娘と直人と祈って帰ってきました。
お祖母ちゃんの体をマッサージしたり傷の手当をしたり、何時も健康管理に心がけてくださっていたお父さん、何時も変わらず行いによって仕え続けたお母さん、優しい励ましをなげかけ続けた恵津子さん そんな中で、静かに範子お祖母ちゃんは 地上での歩みを終えられました。今度お会いするのは天国ですね、お祖母ちゃん!!}