会堂建設を通して、教えられ学ばさせられたこと
金子量昭
T 私は会堂建設を通して、何を学んだのか。
1、ささげることについて
時間を、能力を、与えられたものを、ささげることは、人間的に無理をすることではなく、必要なら神がささげるものを、またその力を与えて下さる。 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)とあるように、主の召しに応答するなら、キリストとともなる働きは、苦しみの末に勝ち取るものではなく、当たり前で、自然な、軽い働きであると教えられました。それは、人間がほめられるのではなく、神が褒め称えられるためです。
@時間
7月末から11月まで、週一日2時間早出をして3時に早退するという勤務形態を社長に許可していただくことが出来たが、時期的にもちょうどよいタイミングだった。7月のいちばん忙しいピークの時期が過ぎ、また一年前ではPTA会長の仕事が多くて出来なかったと思われる。
A能力
振り返ってみると、昔から図面のようなものを書くのが得意だったのではないかと今は思うわけで、結局、1月〜3月まで12枚ほど書き直したことになるが、書くのが苦痛ではなく楽しかった。ちょうど時間も与えられて、また、兄弟姉妹の意見を吸収したり、アイデアを反映させることが出来たのではないかと思っています。「密議をこらさなければ、計画は破れ」(箴言15:22)Bお金神様は、ささげさせるために与えられる方であると教えられました。だから、たとえささげられたとしても、それは感謝なことであり、また神を褒め称えるべきことです。
2、この働きは、神が始められたという確信の大切さ。
どんな立派な人でも、過ちはある。しかし、神が始められたことは、どんな困難があっても、神御自身がやり遂げられる。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)
だから、途中で挫折しそうになったとしても、もう一度、この働きは人間から出たことなのか、神から出たことなのか問い直し、神が始められたという確信があるならば、人間的には絶対不可能に思えることであっても、神は道を開かれると信じ切ることが出来る。「あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8:13)
3、自己愛から離れること
相手とうまくやっていきたい、人間関係をよく保ちたい、分かってもらいたい、相手に受け入れられたい、という欲求は自己愛から来ている。分かってもらいたい、という欲求をそのままにして行動すると、分かってもらうために相手の落ち度を説明することになる。結果的に相手を責めることになる。しかし、責めるべきかどうかは、また別の次元の判断となる。つまり、責めることによって相手を愛する場合(箴言27:5)であり、それは自分を愛する故に相手を責めてはならないということである。また、相手に受け入れられたいということも同様で、受け入れるかどうかは相手の問題で自分の関与する問題ではない。最終的にすべては、神の前に自分のとるべき行動と態度がいかにあるべきかを求め吟味することである。
4、神の業は、私たちを清めようとする。
肉を引きずり出して苦悶させ、その肉を十字架に付けようとされる。あえて、そのような状況に主がおかれる。「銀にはるつぼ、金には炉、」(箴言17:3)長野集会には会堂建設。
5、会堂建設を手伝って
イエス様に対するイメージが変わった。映画などで登場するイエス様は、か細い感じのスタイルの人が殆どだが、この建築材料を運んだりしていて、握力の限界になり手が握れなくなってきて、大工をやっていたイエス様があんなか弱いイメージでは絶対ないのではないかと思った。
U 神は、会堂建設を通して、集会に何を教えようとされたのか。
1、神の生ける御手を、御自身の教会にあらわすこと。
・1998年1月18日、祈りの結果の報告会
今示されている土地を買うことが主の導きなのかどうかを求めていた時、現金で土地を買うことが出来れば、それは主の導きではないかという判断をしていたその日、無記名の献金のアンケートを出したが、誰かが「今集計して頂けませんか」という求めに応じて責任者が集計したら、何と土地の代金とピッタリの金額になった。その時の静寂、それは神の御手に触れた時、えも言われないというか、誰も何も言葉を発することが出来ない、神の臨在に触れたようなこの瞬間は今思い出しても涙が浮かんでくる。
・1998年1月11日、
土地を買うのが主の導きかどうかを求めた全体報告会で、グループ別に討論して、現金で土地を買えれば、その土地を担保にお金を借りて建物を建てる資金にあてることが出来るので、現金で土地を買えるかどうかが、その判断の基準になるのではないかという意見が出た。そしてgoかstopか分からないので、アンケートで金額をとってほしいという意見が出て18日の結果になった。しかし、結果的には法人でもない教会が教会名義ではお金を借りられないことが後で分かったのだが、この理解不足があったからこそ前に進み出ることが出来たということを考えると、神の知恵と導きは私たちの知識の不足をも使って、さらに大いなることをなさる方だということを教えられた。
・1999年1月
ハミルトン兄の特別な御好意で、お金があるところまで建ててあげるから、続きは与えられてからでよいということで、建築資金がいくら与えられるか分からない内にゴーサインが出たと判断していた(1998年12/6)。しかし、今度は建物を建てるための献金のアンケートであったが、結果は必要額をすべて満たすピッタリの金額が再度示された。 尾崎兄が、集会の会堂建設では普通、建設資金が与えられるかどうかという点がチャレンジとなっているのに、長野集会はそれが最初に満たされた。では、主はどのようなチャレンジを会堂建設を通して長野集会に与えられるのだろうかと言われたが、まさにその後で大きなチャレンジが待っていた。
2、神の恵の素晴らしさを教えること
教会を造っていただける方が、クリスチャンであるということは大変素晴らしいことである。クリスチャンでしか分からない、教会の使い勝手や必要をよく理解していただけるし、こちらが予想していなかったことまで、アドバイスをいただくことが出来た。まさに、神様が用意していて下さった神の器がハミルトン兄であった。 そして、ハミルトン兄はまさに自分の教会を建てるつもりで、長野集会の会堂を造って下さった。まさに、特別な神様の恵をいただいたとしか言いようがない。
3、神の導きだという兄姉の確信と一致、群として歩めることの素晴らしさ
土地の購入、建物の建設の決断という大きな岐路の所で、神の導きを求めたが、その時全員の意見を聞き、一人ひとりが主の前に神の導きだという確信を持てたことを確認して進めたということは、この上もなく素晴らしい体験だった。それは、人間のわざとしての働きではなく、神の働きだという確信のもとに進むことが出来るということは、集会の一致の根本だからと思うわけで、真の一致は、人と会わせることによる一致ではなく、それぞれが神と一致した結果として教会の一致があると教えらた。これは、一匹の羊をも置いてきぼりにされない牧者である主が、群として私たちの集会を導いていて下さっているという恵を覚えされられると同時に、一つの群として歩めることの幸いを感じます。
4、神はなぜ、様々なトラブルを許されたのか。
私たちをへりくだらせるための方法を神は用意された。それほどまでに、素晴らしい会堂で、そうでなければ、高ぶりの誘惑に勝てなかったのではないか。神は、御自身の大きな働きをする前に、へりくだらせ、私たちを砕く必要があったのではないかと思わさせられた。 本当の神の御わざがなされるところに、サタンの攻撃も集中するようになる。サタンの攻撃は、 ・肉に働きかけて、分裂を計ること ・人を誇らせ、人に栄光が帰されるようにすることと思われるが、それは私たちが主につくなら訓練の時となり、肉につくなら、サタンのわなに陥る。 私たちの弱さを主は問題にされない。かえって、気負わない方が、主の御業がなされる。気負うと、人の業になりトラブルが与えられる。
最後に、会堂建設のために自分に与えられた役割を振り返ると、神の御業としか考えられません。しかし、神様が与えられたということは、それを成し遂げる力も神様が同時に与えるということであり、まさに自分には過大な働きであったが、神様はそれを無理なく続けることができるようにして下さいました。それは、すべて神様の恵と働きであって、ただ神を賛美するものです。 ただ、反省することは、PTA役員から始まって、家族のための時間や子供との時間がだいぶおろそかになってしまったのではないかということです。何とか、取り戻すことが出来たらと考えています。
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